2015/08/29

(No.2377): 晃一郎と吉之助 (続・軍装の行方)


麹町区三番町に在るカフェ”倉香の華”の店内にはクロード・ドビュッシーの「前奏曲集・ヴィーノの門」が低く流れていた。

逓信営轄所から呼び出しを受けた晃一郎がそのカフェで吉之助と落ち合ったのは陽も傾きかけた午後四時を回ったところだった。晃一郎が座るかしないうちに、待ちかねた吉之助が捲し立てた。

「お呼び出しぁは一体(いってぇ)何だったんで?」
「予想しちゃぁいたがよ、奴らの、デユーイの提唱会の有様を言って聞かせたてぇやつよ」
「珈琲を」

通りかかった給仕に注文すると、晃一郎はズボンのポケットから折り畳んだ一枚の紙切れを取り出し吉之助の前へ置いた。その紙切れにはこう記されていた。



仕諜命令書 第三九三八

発布 
東京市第二逓信営轄 
拡報技長  物部総爾郎


デユーイノ次期以降提唱会 デハ改めた規律則通リ
タキヲン粒子排出口付紅色発光ダイヲード基盤配設式
軍装飾ヲ着用ノ限リ此軍律発布報トス



「物部の野郎、こんなもんをばら撒いてやがった」

晃一郎は腕を組んで椅子に深く沈んだ。両手で紙を掴み睨んでいた吉之助だったが、そのうち諦めて突っ返した。

「晃さん、何が書かれてんだかおいらにゃぁてんで」
「早ぇ話が奴らまた、軍装に戻るってこった」
「この前(めぇ)の物腰やぁ、堅気のようでしたからねぇ」
「まぁ失脚した村岡翁の後釜に物部てぇ野郎が控(ひけ)えてたってことよ」
「そいつぁ何者なんです」
「ハナは村岡爺さんの傀儡てぇ噂もあったがよ、おいらの見立てじゃぁどうやら見当が違(ちげ)えらしい」
「するってぇとまたドンパチが始まるんですかい」

運ばれてきた珈琲を一口舐めると晃一郎は話を変えた。

「にしても渋谷町の箱ぁてぇした鳴りだったなぁ」
「晃さんの前(め)ぇだけど、あの箱鳴りぁ思い出しても動悸が上がりやす」
「そういや神無月を待たずして渋谷町の箱でもう一度何やらおっぱじめるてぇ噂を逓信営轄で聞き込んできたぜ、まぁまだ八百ってぇこともあるがよ」
「本当ですかい、そいつぁまた浮かれやすね」
「おめぇまたそんなことを、まだ決まっちゃいねぇよ」

晃一郎は命令書の紙をぐしゃりと丸めるとテーブルの灰皿へ投棄した。
店内の音楽はリヒャルト・シュトラウス 「サロメ 7つのヴェールの踊り」に変わっていた。


2015/08/26

(No.2376): 0824 deweyライブの巻(渋谷VUENOS 編)


前週金曜夜のリハスタで発生した電子デバイス霊障は本編では発生せず、これも千代田稲荷様詣により得らるる御利益。張られた結界の賜物と心得る。




渋谷VUENOSさんの圧倒的な物理的構造の恩恵とスタッフの方々のキメ細やかなるご対応に平身低頭し、極めつけはサウンドチェックに於けるtaira士声質に合わせたマイク交換に尽きる。(ダイナミックマイクからコンデンサマイクヘ交換)
此方の方が声が前に出ますねというPAさまの音への拘り方に感謝しつつ共感を得る。感謝し得まくる。

そんな渋谷VUENOSさんで音響設備以外で驚愕したことは楽屋以外に出演者用控え室があり、しかもその中に専用のBARまでがあること。
(出演者用控え室全景)




共演者の方々は皆さま格好良い素敵な音楽を。
princeheightsさんは上手、下手に電子デバイス群を配しセンターにドラムという構成。アンビエントな音像にフリーなドラムが絡まる。素敵な大人の電子音楽だった。下手の方の弄っていた機械はモジュラーシンセ(メーカ名お聞きしたのだが失念)との由。
ぐっと来る。

kuramuさんはお一人のユニット。センターにMacBookを配し、そこから繰り出されるビートのあるアンビエント的なトラックにご自身で弾かれるギターが重なる。その絶妙感がこちらもまた素敵な大人の電子音楽の域。Pushでのリアルなクリップ送出クラブトラックもぐっと来る。


比してdeweyはおもちゃ音楽だなーと。玩具とおもちゃの狭間を漂う大人の玩具音楽だ。そのおもちゃ音楽は大きなトラブルもなくつつがなく演る。何にせよ新旧取り混ぜたセットリストで抜群の音響の中、楽しくライブできた。



箱私観。
一般的にライブハウスといえばロック系、主にギターバンドを主軸としていることが多いのに対し、それでもこちら渋谷VUENOSさんはテクノ、エレクトロニック音楽に完全対応している希有なライブハウスである。
その筋では最右翼と言われる高円寺Highと比べても遜色はないと思う。収容人数も同じくらいかと。フロアを見れば四方を囲んだPAスピーカーがその心意気を表している。

ちなみにサウンドチェックで拙曲の「Complexitate」を演奏中に外音を確認するためフロアへ降りてみたが、相当な重低音と音圧を感じた。(あの曲はNordLead2によるサイン波Bassが50Hzを下回る低域を出しているのだ)
ライブハウスで「低域の風」を感じるハコは少ない。

テクノ、電子音楽系絶対お勧め。





(photo by 葉介さん)


(photo by edie.s)


(photo by edie.s)


(photo by edie.s)



追記:
そーいえば今回、dewey制服(軍服的なアレ)を着なかった。
が、次回以降は復活の可能性あり.


2015/08/23

(No.2375): 32年前の邂逅


1982年の1月か2月頃だったと思う。筆者が大学1年の時。
小学時代の友人と吉祥寺パルコの中をぷらぷらしていたら、その友人の高校時代の同級生という青年とばったり会った。

友人とその人は高校卒業以来だなーなどと挨拶を交わしていたのだが、友人が思い出したように、「あ、そうそう、こいつも(筆者のこと)音楽やってんだよ、なんか多重録音してるやつ」と筆者を紹介したのである。その人は「えー!そうなんですか!」と驚いた様子だった。それには筆者も驚いて「え?そちらも多重録音やってるんですか!」と声高になった。

当時は「宅録」などという言葉はなく、サンレコも創刊してまだ1年足らずの頃、多重録音を家でやっている輩など皆無だったのだ。
しかも、しかもである、お互いYMO、Kraftwerkが大好きで、やってる音楽はテクノだったのだ。
「ワイエムオー!、ビージーエム!」「ワイエムオー!、テクノデリック!」と吉祥寺パルコ内で叫び合った。

何故なら当時、テクノ音楽をやっている人間など筆者の周りには一人としていなかったからだ。彼と話をしてみると、完全100%筆者と音楽嗜好が合致したのだ。今まで、YMO/BGMについて他人と意見交換や感想などを言い合ったことなどなかったから、すぐさま意気投合した。それがTくんと知り合った切掛けだった。
Tくんとはそれから共同制作したりユニットを組んでライブやったりで、ある時は密接になったり、しばらく離れたり、そんな関係が約10年間ほど続いた。


1983年、Tくんの一作目の作品集(ミニアルバム的な)ができたということで30分のカセットテープをもらった。Tくんは一人で「近代案出」というバンド名義で活動していた。その頃筆者は「HORMONE」というユニットを別の男と組んでいて、同じく30分テープのカセットで作品を既に発表していた。

どれどれどんな曲なんだろうかとTくんのテープを聴いた。そのあまりの完成度の高さに度肝を抜いた。同時に自分の作品の稚拙さを叩きつけられたのだった。言ってみれば、幼稚園児と大学生ほどの違いはあった。(実際大学生だったけど。だから筆者は幼稚園児ということね)
当時筆者が作っていた曲を今聞くと「ごっこ」の 域を出ていない。つまり自己満足だけの音なのだ。それに比べてTくんの楽曲は他者を意識した作り込みで、筆者の曲と比べるのも失礼なくらいの次元の違う作品だった。

ちなみに当時Tくんの機材はTASCAM244(4TR カセットMTR)、KORG MONOPOLY、TR-808であった。
当時の筆者はTASCAM234(4TR カセットMTR)、Roland SH101、BossDR55だった。Tくんの方が高価な機材を使っているからなどという陳腐な話ではなく、音楽に対する姿勢、発想やアイデア、音楽的知識、アートディレクション 全てにおいて三つも四つも筆者の上を行っていたのである。
だいたいこのテープのA面の3曲目が坂本龍一氏のFM番組で取り上げられるほどなのだ。


「近代案出」は1984年、「Zelefantankel Danz」というカセットを発表した。これがまた、ファーストを上回る出来だった。
前作が音響的あるいは前衛的なアプローチを主軸としていたのに対し、次作ではボーカル曲も増やし曲調も暗めなポップ色のテクノという方向だった。”ゼレファンタンケルダンス”というのも実際このアルバムで知ったし、そのアルバムタイトルの曲がまたダークな歌モノで痺れまくる格好良さ。
また筆者の作った「耳鳴り」という曲をカバーしてくれたりもしたが、このTくんバージョンの方が全然格好良いのだ。(作者がいうのだから間違いない)

「近代案出」は結局この二つのアルバムしか出さずその後自然消滅してしまうのだが、この二つのアルバムは筆者にとって、YMO/BGM、テクノデリックとともに、筆者のテクノ音楽のバイブルとなった。




2005年くらいに、「近代案出」の作品をカセットテープからMDに録音していたのだが、MDもいつ聴けなくなるかわからないので、昨日HDDへ録音保存した。
久しぶりに全作品を聴いたが、32年後2015年に聴いてもなんの古臭さも感じず、楽曲の格好よさに改めて驚いた次第。

Tくんは大学卒業後、某シンセメーカーK社に入社するが、その数年後某IT機器メーカーへ転職、現在はその関連外資系会社の社長である。




2015/08/19

(No.2374): 万国誤字評議会(第二十七回)


筆者が嘗て遭遇した最高の誤字のひとつ。障害対応報告会議の席上で客先へ配布した資料。
「〜以上のことからこの障害の原因は●●●となります。」
と書くべきところ、
「〜以上のことからこの障害の原因は●●●と成増。」
となっていた。

正式報告書の文面で「なります」という文言の良し悪しは置いておくとして、突然の東武東上線の出現にその会議に出席していたこちら側関係者は皆凍りつき、しかしそれよりも笑いを堪えるのが必死で噛み殺し半笑い状態という正しく拷問であった。
「なります」を「成増」と打ち間違えた日本語変換ミスにまつわる誤字自体はもとより、客先へ謝罪を伴う会議という至極真摯にご報告申し上げる場面で、こともあろうに「成増」という誤字を印刷してお客様へ配布しているというこの状況が作り出す緊張と緩和の絶妙なるバランス感に、我々評議会は高い評価を与えた。

最近では「うるう秒」に関連した仕事メールで、タイトルは「うるう秒の対応」であるのにメール本文では全て「うるう病」になっていた。
メール本文:「2015年7月1日(水)は「うるう病」が発生する日として云々〜」
その日に発症するいもち病みたいな植物の病気か、と。気色悪い絵面を想像してしまう。残念ながらこちらは内部向けメールということもあり誤字に関しての指摘はあまりなかった。
しかし「うるう病」という字面を見てるだけで物語を想像できてしまうあたり、評議会としては高評価としたい。


ちなみに、この二つの誤字は同一人物によるものであり、筆者よりも一つ年下の同僚(当時)なのである。最初の「成増事件」は今から20年ほど前のことで、その人は当時は筆者と同じ伍長クラスの階級だった。
そして「うるう病」は今年の7月のことなのだが、しかし今やその人の階級は少将クラスである。誤字すらできない無能な筆者は伍長から二等兵へ降格させられたというのに、派手で豪快な誤字をするその人は20年後少将にまで昇格した。
現実はこれほどに愉快である。

(階級にどれくらいの隔たりがあるのか確認するためには以下の表を参照願う)
<特別付録 階級ツリー>
エ↑元帥
ラ|大将
イ|中将
 |少将 ←誤字の人(一つ年下)
 |大佐
 |中佐
 |少佐
 |大尉
 |中尉
 |少尉
 |曹長
 |軍曹
 |伍長
 |兵長
 |上等兵
ザ|一等兵
コ↓二等兵←筆者イマココ




なお、別の人物(故人)であるが、その人は万国誤字評議会において現時点で最高位に掲げられる伝説的で忘れられない誤字を排出した。
それがこれだ。

スットプ → (正:ストップ)
インフュメーシュン → (正:インフォメーション)

カタカナでこれを越える誤字を筆者は未だ見たことがない。



2015/08/17

(No.2373): 過去日記から発掘シリーズ(3)


やァいらっしゃい。大したアレじゃァないんだがね、まァお掛けよ。
昔の日記をひつくり返してゐたらね、丁度良ひ塩梅に君の欲しがってゐた話が見つかってね。いやね、もっと詳しいところをお望みならもう少しばかりは探索を弾むところなんだけれどもね、まァこ々ら辺りがお手頃なんぢやなゐかと想ってね。
君が所望してゐたのは下の日記の二つ目の■マァクの話しさね。

(No.1484): 夢記五二





2015/08/14

(No.2372): 目覚めたApple Macintosh Classicに


deweyの写真を撮影してもらっているstereogimmikのedieがカラクラ(*)を処分したいのだがという話をしていて、ああそういえば筆者もクラシック持ってるなーもう埃まみれで機材の奥の奥の方に荷物の下敷きになってしまったけど、そういえば奴はどうなってしまっただろうかと想いを巡らせていた。
クラシックとはApple Macintosh Classicのこと。
(*)(カラクラとはMacintosh Color Classicのこと)

Macintosh Classicは筆者のファーストMacだった。1990年頃に確か24万円くらいで買った。もう25年も昔の話だ。画面は白黒。8bitマシン。CPUはモトローラの68000。メモリは2MB、HDDは30MBくらいだったか。
最近ではそれでももう15年位前になるだろうか、コンピュータボイスの音を録音するのに立ち上げた覚えがある。当時のMacintoshにはMacin Talkという合成音声エンジンのシステムファイルが標準で入っていて、こいつが滅法テクノっぽいコンピュータボイスを喋ってくれるのだ。
今みたいに人間味など微塵もなく、矩形波と三角波とホワイトノイズだけのフォルマントで(実際はもっと複雑だろうけど)あのざらついた感じは今の優等生合成音声では出せない。そんなMacin Talkを呼び出すHyperCardを使ってテキスト読み上げスタックを作成していた。

荷物をどけて埃まみれの奴を引っ張り出し、掃除機で綺麗にしたあと欠損がないか調べる。特になさそう。電気を通すのすら15年も前なので火が出るとも限らない。
緊張しながら電源ON。ポーンという音は鳴らなかったが、ニコニコMacが登場して普通に起動して感動。「あけましておめでとうございます」というオープニングタイトルが出る。ちゃんと起動して普通にアプリも動くし、何の問題もない。



ただし、内蔵スピーカーは断線したようで、音は一切鳴らなかった。久しぶりのMacin Talkボイスは聞けなかったが、音を外出しすれば大丈夫だろう。しかしほったらかしで埃をかぶっていたのによく動くものだ。
いろいろ中身を調べていたら、「電子音楽と温泉鉱泉」の活動をしていた時の温泉旅記録70ページにも及ぶ資料を発見した。まさに筆者にとってはタイムカプセルだ。これはデータを保存しておきたいと思ったのだが、外に持ち出せないことに気付いた。




Macintosh Classicにはフロッピードライブはある。しかし肝心のフロッピーディスクがないうえに、仮にあってもそれをどうやって今のMacBookProに移せば良いのだ。USBのフロッピードライブを買ってくるしかないのか。そのためだけに。
面白すぎる。やろう。



当時インターネットなどなくて、主にパソコン通信。
そのターミナルソフト「ニンジャターム」懐かしいー




新旧Macのツーショット。Macintosh ClassicとMacBookPro




25年の歳月の変化。
そりゃ歳とるわ。





2015/08/13

(No.2371): ケーブル入れ替えの正期(句点はひとつ祭)


まるで水の中にいるような湿度で汗も一向に蒸発しないのでライブ用のケーブルを数本新調すべく、くだんのサうンドハうスさんサイトを回遊し物色しつつ、だいたい今使用している各種ケーブルは(昔はシールドなんて言ってたけど今でもギター系では言うのだろうか)ほとんどが10年以上前のものばかりで、しかしそれなりに先端を接点洗浄剤などで軽くメンテナンスしているものだから言ってみればフツーに使えているのだけれど、そこはやはり経年劣化はやむを得ない状況にきているかもしれないという雑駁な感情のもと、いつものサうンドハうスさんサイトをぺらぺらめくりながら我ら辺境電子音楽楽団deweyのライブ構成に必要にして最低限のケーブル類を見繕いのポチりったのが数分前の出来事であり、いつもの塩梅なら明日の午後には着荷のはずであろうことは。


フォン - フォン デュアル HOSA



XLR メス - オス HOSA




TRS - TRS デュアル HOSA




MIDI HOSA



2015/08/09

(No.2370): レーベル雑務係の巻(昭和40年代のアニメタイトルコールで)


本日はレーベル雑務係の業務を全うすべくここに謹んで賑々しくアレのナニをお送りいたします。です。


【辺境電子音響ユニットdeweyのCD発売のお知らせ】
deweyの2nd CDできました。
Complexitate

Tr2 アルバムタイトルでもある「Complexitate」、及びTr4「Floral rain」のミックスダウンはあの「珍Zさん」でお馴染みのレコーディングエンジニア鎮西正憲さんが担当しております。エフェクト全般については鎮西さんのイメージでサウンド的なアレンジを施して頂きました。

<アルバムサンプル>


取り扱い店は 東池袋の「TOKYO FUTURE MUSIC」さん
通信販売も行っております。

居心地の良い大変落ち着く雰囲気のお店です。クオリティの高いたくさんのインディーズ作品があり、全て試聴可能です。是非お立ち寄りください。




【辺境電子音響ユニットdeweyのライブのお知らせ】
2015.08.24 (MON)
渋谷VUENOS

START 19:00 -
DOOR ¥3,000(ドリンク別)
*ゲスト(¥500)できます。 twitterでリプまたはDMで!

Live:
kuramu
dewey
princeheights
go takahashi




もうね、すっごいのやるんだから。dewey
きてねー



2015/08/07

(No.2369): 25年前バリ島回顧録


25年ほど前インドネシアのバリ島に行った。
仕事場の旅行だったから当時はまだバブル的な塩梅だったのだろう。確か10人くらいで、4、5泊したと思う。宿泊地はクタの街だった。

初日と次の日くらいは有名観光スポット巡りだったが、3日目以降はほぼフリーだったので後輩のN君と二人で観光地化されていない普通の村に行ってみようということになった。前の日に部屋で地図を広げてどこにしようかと相談し、まるでダーツの旅のように適当に地図に指を当ててここだーなどと浮かれて決めた。その村の名前も今は忘れた。

翌日僕等はホテルを出ると繁華街を走って抜けた。なぜ走って抜けたかと言うと、日本人の観光客はホテルから一歩外に出ると現地の売り子達に囲まれて絡まれるからなのだ。
袖を引っ張るくらいならまだいい。腕を引かれてどこぞに連れ込まれてしまうのではないかと思えるほどの強引さで、「センエン、センエン(千円)」と言ってボールペンやら花でできた何かやらを売りつけようとする。

書いてて思い出した。
話は逸れるが、ホテルから歩いて2分ほどの場所に両替所があるのだがそこに行くのが大変だった。その短い距離なのにとにかく囲まれてどうにもならず、両替所に行く場合は複数人でドヤドヤと行かねばならなかった。

話を戻す。
で、繁華街の外れあたりでタクシーを捕まえる。なんか路肩に止まってたのを。
こちらは片言の英語で話すが、運転手はバリ語かインドネシア語で英語がわからず、しかし、地図を見せて、ここまで行ってーと依頼する。
料金はその場で交渉。

40分も走っただろうか、途中から未舗装の道になり少々不安になる。目的地と思われる村の中心の広場のような場所で降ろされた。
帰りもタクシーを使わないと帰れないので、何時にこの場所に迎えに来てくれと運転手に伝えようとする。が、なかなか伝わらず。クルマの外で運転手と大声で話していたのを見兼ねて近所の英語のわかる人が出てきてくれて通訳をしてもらった。
時間と帰りの料金の交渉をお願いした。



辺りは山の中でもなくほぼ平地なのだが畑が点在し、家もそこそこ建ち並んでいる。
後輩のN君とこっちに行ってみようと、文字通り行き当たりばったりの旅。日差しは暑く厳しくて、湿度もあったと記憶している。

この村は観光地ではなく普通の村なのだが、どうやら繁華街の土産物売り場に売ってたお土産用の木彫りなどを製造している家が多いらしく、開け放たれた家の前に座って木彫りをしている人が何人もいた。彫っているところ見ていると、何か話しかけてくるのだが言葉がわからないのでこちらはもう普通に日本語でいやーうまく彫るもんですねーなどと応える。

しばらく歩いてたら後輩N君が
「エフオピさん、ぼくウンコしたくなってきました、どっかの家でトイレ借ります」と言う。
「ちょ、え? トイレ借りるってマジか」
たしかに、公衆便所があるはずもなく、さすがに野グソはまずいだろうと。すると、後輩N君はすぐに目に着いた大きそうな家の庭(というか道と庭の境もあまりない)に躊躇なくずかずかと入り込み日本語で「すいませーん」と大声を出す。ハラハラして見ていると大柄なおばさんが家から出て来た。
私は日本から来た観光客です、みたいなことを英語で言ったあとウンコするポーズ(しゃがんで踏ん張る、おしりのところから手でバッバッってジェスチャーする)をしながら「トイレかしてください!」と日本語で懇願する。

そういうことは世界共通なのか驚いたことに、そのおばさんは笑顔でトイレを借してくれたのだ。しかも、僕らに冷たいお茶(茶色の紅茶みたいな飲み物)をご馳走してくれた。記念に一緒に写真まで撮った。幾重にもお礼を言って、辞す。
日本で外国人がウンコしたいからっつってお宅のトイレかしてくださーいなんて来たら、貸せますか?あなた。
本当に親切な人だった。



腹減りましたねーと後輩N君は言う。こんな村の中で食べる場所などあるものだろうか。
しばらく歩くと、少し先の右手に飲み物ののぼりが見える。近付いてみるとほぼオープンスペースの掘立小屋でそこは食堂だった。
お客さんは誰もいない。
座ったらちゃんとメニューも出てきた。ナシゴレンとアイスコーヒーを注文した。普通にナシゴレン、あるんだ。と思った。日本でいえばかつ丼とか親子丼とかそういうニュアンスなのだろうか。

そしてこのナシゴレンが、滅法美味かったのを覚えている。ナシゴレンは宿泊しているホテルでも食べたのだが、この店の方がぜんぜん美味かった。
周りに走り回っている鶏がいるのだが、目玉焼きのたまごはきっと彼女らの卵だろうと思う。濃厚で新鮮だった。粉っぽいコーヒーだって味わいがある。ナシゴレンに良く合う。



腹ごしらえを終えて再び散策する。とにかく暑くて暑くて、途中喫茶店のようなお店にも立ち寄る。喫茶店というよりも駄菓子屋といった感じ。一応冷房が効いていた。
コーラを飲んでいたら、そこの店主が話しかけてきて、それが日本語だった。聞いてみると数年前まで横浜に住んでいたという。その店主は50歳くらいのおじさん。僕らが日本語で話していたので懐かしくて話しかけたと言う。
その店主に「なんでこんなとこに来たの?」と聞かれ、普通の村に来てみたかったのですと答えたら相好を崩した。



タクシーとの待ち合わせ時間に村の広場へ着いた。タクシーは既に待っていた。朝、乗ってきた場所まで送ってもらう。ところが、道が少し変なことに気付く。着いたらしいのだが、見覚えのない場所で袋小路になっている。
お金を払えという。しかも、交渉した金額以上の金額を要求された。ノーノー場所も違うし、金額が違うと拒否すると、運転手はi have a gunと言いながらダッシュボードをポンポンと叩く。

びびりまくる筆者をよそに空手の段持ちの後輩N君が、
「エフオピさん、まかせてください、こんな野郎叩きのめしますよ」などと後部座席から運転手の肩を掴みだしてガクンガクンやりだした。
筆者は半泣きで「や、やめろよ、撃たれるよ、おい、やめろよ」と言ったのだが後輩N君はそれでも「ふざけんなよこの野郎金額決めたじゃんか」と一歩も引かないのだ。

結局運転手は銃は持ってなかったようで、後輩N君の逆恫喝が意表をついたのか諦めて朝の場所まで戻ってくれた。このような脅しでお金を払ってしまう観光客が多いのだろうと思った。
しかしこんな目に遭いながらも一応約束の金額は支払ってあげた。




2015/08/06

(No.2368): 奥義・分裂的散文(其の弐)


ピー、ピー、
SCHOOL OF THOUGHT
SCHOOL OF THOUGHT
ズチャカジャンジャン〜云々

今日はなぜか高橋幸宏さんの「音楽殺人」の「SCHOOL OF THOUGHT」が頭の周りをぐるぐる回る。しかしキミ、あの曲のイントロを表現するのにズチャカジャンジャンはないだろう。
あ、関係ないけど急に思い出した。15年くらい前のDJイベントで歯磨きしながらやってるDJさんいた。


ズチャカジャンジャンはズンシャクパッパーの従兄と聞いております。シャクパの用法には秘儀があります。
サフォンの言い伝えによればラルゲリュウスの卵をうでることで秘儀の初弾を発することができるそうです。うでる時間は17分と20秒。
うでる → 茹でる ではありません。「うでる」です。

地球の地軸は、公転面の法線に対して、約23.43度傾いています。この傾きが季節となってあらわれるのですが、僅か23度の傾きでさえ気温35度或いは0度など、この日本の東京の位置でもそれほどの振り幅があるのです。
これが金星となると自転軸が軌道面に対してほぼ垂直になっているため季節はほぼなく、気温は通年で400度を下回ることはないのです。そして火星では赤道傾斜角約25度であり地球と同じように季節があるといいます。
それでは外を見てみましょう。










2015/08/03

(No.2367): dewey 緊急ミーティング(新宿三丁目編)


朝の井の頭通り、環八交差点の手前渋滞。普段なら鼻歌のひとつやふたつ歌っているうちに渡れるくらいの穏やかな朝の風景なれど、午前8時50分すでに気温は33度、我が六級改号DUCATI M696之助に跨りし股間にある空冷二気筒デスモドロミックエンジンの熱線熱波は大気との相乗効果で駆る人をして失神或いは仮死領域へと誘うに十二分過ぎる真夏の炎天下体感温度50度の我慢大会は、もはや我慢の限界を千も越えてあと数分で気を失うところだったのでその夜半deweyのミーティングを緊急に執り行う。於新宿三丁目。

出来上がってきたdeweyの新譜を手に取り我らは祝杯を交わす。水出しアイス珈琲で。
我々は専属アーティスト兼レーベル運営雑務係であるので今後の販路について中指を立てながら建設的な意見交換を行った。そして何より次回ライブ8月24日の渋谷VUENOSさんでのライブに全力を投入し正しく燃え尽きる覚悟を確かめ合うのだった。次回ライブではtaira師側システム新導入のハードウエア機材2種をフィーチャーし楽曲は新旧織り交ぜの構成で準備を整えている。

ここで改めてdeweyというエレクトロニック音楽ユニットの組み立て方をみてみよう。
先ずはコード感、旋律、歌といった音楽的志向のtaira師を置く。その隣にビート感、リズム、音像といった音響的志向のエフオピを置く。
一見異質な者同士であるけれどもお互いを補完することでそれは何か新しい音のカタチを成すだろう。そして極めて少数ではあるけれども、この三千世界には必ず琴線を弾かれるオーディエンスは存在するのだと信じている。