2023/02/22

(No.2636): 床屋を訪なう。シリーズ再開

前回の記事で贔屓となったこの床屋さん
あれから9ヶ月以上、足繁く通っている。

通ってはいるのだが、特にドラマチックな展開はなかったので
記事にすることはなかった。
今日までは。


この店はスタンドアローン的な街の床屋さんかと思ったが、
そうではなく、いわゆるチェーン店のようだ。
しかし手広くやっている風ではなく、
周辺に2店舗ほどの小規模展開の床屋さんであると思う。

いつも必ずいる大柄な理容師さん
(上記「この床屋さん」記事で登場するおそらく店長)
の他に理容師さんが2〜3人いるのだが、入れ替わりがあるので
おそらく他のお店と持ち回りなのではないかと思っている。

今までの経験からこのような形態の床屋さんでも
理容師さんのスキルとセンスは概ね統一的な塩梅のことが多い。

ところが、本日ご担当された理容師さんは違った。
筆者は今回お初の方だった。

すごく丁寧な仕事ぶりで、カットが他の理容師さんとは
違う繊細な感じを受けた。
頭を張り倒されることもなく優しすぎるくらいの圧。

面白くもなんともない。
床屋さんに雑駁な面白さを求めている筆者にとっては
今回も振り幅ゼロ、無難な安定感か、と思っていた。


「眉毛を切りますか?」と聞かれたので「お願いします」と応えた。
専用のバリカン?的な器具で無造作に眉毛の辺りを
グワーンと刈っていった。
一瞬ギョッとしたのだが、鏡を見てもあまり変わらないように見えた。
ふーん

カットも終わり、洗髪に入った。
ここの床屋さんは洗い流す時は、客が自分で椅子から前にずり出て
シンクに頭を突っ込む式という他の床屋さんではあまり見られないタイプ。

そのとき普通理容師さんは椅子を高くして、お客さんの身体を
前傾姿勢にさせるのだ。
そうしないとシャワーで頭を流したときにお湯が首元まで濡れてしまうからだ。

ところが、この理容師さんは逆に椅子を一番低くした。
案の定お湯がシャツの襟を濡らす。

「お!?なんだ急にこの雑駁な感じは」と思った。
来たか。来たのか。

その後の肩揉み、髭剃りがまたカットの時とはえらい違う雑な扱いで、
特に髭剃り後のローション的なものを顔に付けるのが
天才バカボンのほっぺのクルクルみたいな感じで
筆者のほほをくるくるするのだ。

やばい。もうあと3秒続いたら爆笑していたところだった。
久しぶりに笑いを堪える。
口角が僅かに上がったのを見られただろうか。



「はい、終わりましたー」
「お世話様でしたー」

まぁこんなもんだろうと思ってメガネを受け取って
鏡で自分の顔を見た刹那、笑いの堤防が決壊した。


「なんやこの眉毛!」

平安時代の貴族麻呂的な。。

お店を出てから爆笑した。


いい店だ。また来よう。


2023/02/11

(No.2635): みんなで曲作り(80s)

1980年代、筆者が20歳前半の頃、バンドとして共作曲を作る場合
バンドメンバー皆んなが集まってわいわいと曲を作っていた。
現在でもそのような形態で作曲をしているバンドもあるのだろうが、
ネット時代になってからは曲データを共有して作っていく方式になった。


そう、今思い返せば、あれはひどく楽しい時だった。

集まる場所は、録音機材が置いてある筆者の部屋だった。
録音機材は初期の頃は4トラックのカセットMTRだった。
(数年後には8トラックのハーフインチテープMTRと
16ch-4busのコンソールミキサーも導入した)

共作曲作りは主に二通りあった。
ひとつは誰かがベーシックな曲の骨組みを作って来て
それをMTRに録音し直しながら、みんなで音を足していったりするやり方。
もうひとつは、みんなでわいわいやってるうちにその場で曲が出来てくるやり方だ。

ベーシックな曲を作ってくるといっても、現在のwavのように「データ」ではなく
良くてカセットテープに一発録音してきたり、
あるいは「こんな感じのやつー」とか言ってその場でシンセ弾いたりして
皆んなに聴いてもらうなどだ。

筆者が関わった共作はどちらかというとその場でできた曲が多い。
ちなみに、1983年〜84年当時の筆者所有シーケンサーはSH-101内蔵の128音記録の
ものしかなく、しかもテープ録音した音と同期ができなかったので
ドラム以外は基本的に全て手弾きだった。


誰かがリズムマシンで何か打ち込んでいて、「それいいねー」とか言いながら
別の奴がシンセでベースを弾いたりして、うひゃひゃ言いながら録音する。

カセットテープに録音するから、あらかじめ曲の構成を決めていないといけないのだが
我々の共作の場合はけっこう適当で、リズムマシンは8小節ループで延々録ったりした。

曲の構成は一応紙に進行を書いていた。とはいえ楽譜は書けない。
長方形の箱の絵を横に並べていく図。今でいうDAWのGUIのようなものに近い。
箱の絵の中にAメロとかサビとかAm とかコード書いたり。
箱の絵の右上に小節数を書いて。

そして今と違って、4トラックしかないので、録音できる音数が少ない。
4つのトラックを皆んなで工夫して音を足していく工程も面白かった。
たくさん音を入れたいから如何にトラックを空けるか。

トラック1:リズムマシン、トラック2:ベースを録ったら、
トラック1と2をミックスしてトラック3へバウンス録音して
空きトラックを作る。
でもあとでベース直そうと思ったら最初っから録り直しになる。
現在じゃ考えられない不自由な非合理性。
今ならcommand+Z(Ctrl+Z)で元に戻るし夢のようだね。



曲と並行して詞もその場で作ることもあった。
1984年に作った「minca」という曲の詞には「絨毯のキノコが 血を吐く民家」
というくだりがあるのだが、これは当時mincaを作っている時
筆者の部屋の絨毯があまりにも汚くてキノコでも生えてそうな状態だったことから
作詞のT氏がその場で思いついたフレーズだった。

ちなみに、1995年に「minca」をセルフカバーした際、筆者が詞のいくつかの
箇所を書き直したので「絨毯のキノコが 血を吐く民家」は
「絨毯のキノコが 身を剥ぐ民家」に変わった。
「絨毯のキノコ」は気に入っているのでそのまま残した。



今思うと、バンドメンバーがリアルタイムでその場で曲を作るという行為は
なかなか刺激的で興味深く面白い方法だったなと思う。
ただし、時間はそれなりにかかった。だいたい毎回徹夜が普通だった。

今ならスタジオを数回押さえて時間決めてやればできなくもないかな。。