2026/06/16

(No.2696): 晃一郎と吉之助(水無月編)

梅雨空から僅かに日差しが入ってきた午後。それでも道行く人の多くは傘を持っている。ここ数日、梅雨寒ではあったがこの湿気では少し歩くと汗ばむくらいの陽気である。その中を向かいの辻からやって来た錦糸堀行きの東京市電がガタガタと揺れて、水たまりが残る狭い路地へと消えていった。

市電の通る辻に木造二階家がある。階下は古道具屋。仕入先のわからぬ怪しげな品やどこかで拾ってきた万国の奇物を並べて商っている。そんな店だから今まで客が入ったためしはない。
古道具屋の二階は六畳一間の借家である。その部屋に裏神晃一郎(うらかみこういちろう)と名乗る男が一人で住んでいた。古道具屋の店主は晃一郎を気に入ったのか月3円という格安で二階の六畳を貸している。この微細な賃料のみが古道具屋の生計を賄っているのだろうか。他方晃一郎もまたどこから収入を得ているのかわからない暮らしだった。

間借りしている六畳間は南と西を角にして格子窓が開けられており、夏は西日が暑いが辻が見渡せるうえ、風がよく通るので晃一郎は気に入っていた。特に、西側の窓の下には一尺ほどの小窓が設けられており、道を走る市電の喧しい音さえ我慢すれば便所の小窓の如く丁度良い飾り窓だった。






普段は浴衣和装が多い晃一郎が珍しく白の本シャツを着て畳に胡坐をかき、直置きしたMacBookProに向かって眉間にしわを寄せている。そこへどたどたと階段を登る聞き慣れた足音が届いた。

「晃さんいるかーい」

晃一郎はそれには応えず画面を睨んでいる。

「昼餉に行こうよ、晃さん」

新伊吉之助(あらいきちのすけ)はそう言いながら晃一郎の横に滑り込んできた。吉之助が晃一郎の部屋に出入りするようになって久しい。吉之助は本所の叔母の家に居候をしているが、定職にもつかず晃一郎の舎弟のように暮らしていた。

晃一郎はフンと鼻を鳴らし、寝癖のついた髪を乱暴に掻きむしりながら、

「おまい、俺がいま忙しいのがめぇねぇのかい」
「晃さん腹減ってねぇんですか。もう時分どきですよ」
「おめぇは見境がねぇな、ちょいと待ってろよ」

吉之助はうーと唸りながら火鉢の灰をいじくり回しはじめた。

「はやくしてくださいな。おいらもう腹の虫が鳴きやがって」
「灰が飛ぶじゃねえか」
「火鉢(しばち)なんてもうかたしちゃいましょうよ」
「あに言ってやがる、湯が沸かせねぇだろう」

こちらも見ずに画面を睨んでいる晃一郎に吉之助は口を尖らせた。

「晃さんは何やってんですか」
「しかしAI(エーアイ)てなぁたまげるぜ。嘘をつくこともあるんで気イ付けねぇと足元すくわれっちまうけどな」
「えーあい?」
「おめぇも使ったことぐれいあんだろ。どうせおめぇのことだ、ありもしねぇ動画でも作っちゃエクスにあげて喜んでんじゃねぇか」
「そんなこたぁしませんよ。だいたいエーアイなんてやりかたがわかんねぇ」
「ほら、もう終いだ」

そう言うと晃一郎はMacBookProを乱暴に閉じた。


晃さん、今日はこれからお出かけですかい?洋装なんぞ着ちまって」
「ちょいとな、でっけえ野暮用があってな、その調べをしてたのよ。だから昼飯は長くは駄目だぜ」
「そりゃ懐があったかくなる話しですかい? ゆんべのメシ、芋ばっかりで腹に力が入りゃしねえ」
「がたがた騒ぐねえ。江戸っ子が宵越しの銭を持たねえってのは、持たねえんじゃなくて、使うからねえんだ。俺たちの手元に今ねえのは、これからでっけぇのが入ってくるってえ予見さ」
「へえ、そいつは頼もしい。で、その『でっかいの』ってのは一体何なんです?」

吉之助が目を輝かせて身を乗り出すと、晃一郎はにやりと不敵な笑みを浮かべた。

「そいつはなぁ、まぁおいおいな」
「教えてくれねぇんなら、うなとと、御馳走しておくんない」
「馬鹿野郎、そんな高けェもん食えるかよ」
「うなとと、のろ。近頃顔みてねぇな」
「鰻はもうすこし待ちな。そのうち食わしてやる。だから今日は一銭洋食にでもするか」
「ならライスカレーでいきやしょう」
裏のおよし婆んとこでも行くか」


窓の外では、また一台ガタゴトと音を立てて市電が走り去っていく。その日暮らしの妙な高揚感を乗せて、二人は階段を踊るように下りて行った。