2021/04/20

(No.2600): 2600回記念「studio D.E.L改の点景 週二回のルーティーン」

筆者は以前、制作環境に常時、楽器や機材がスタンバっているのは好きではないと書いたことがある。
何故(なにゆえ)か。即ち、機材や楽器を出しっぱなしにしておくと、埃が溜まってしまうからだ。ぷふ。

すなわちって顔か。すり鉢みたいな顔して。という詰まらない突っ込みもされながら、そんな些細なことなのかと思われる諸兄の方々。
確かに、シンセや機材をずらっと並べればかっこいいし、モチベーションは上がるだろう。埃さえ溜まらなければ。埃。
ああ、あいつらときたら、ノブの、フェーダーの、鍵盤の、ボタンの、枚挙に暇がなく、重力に則って、降り積もる様。嗚呼ダセー。

え、ちょ待っ。。そんなのマメに掃除をすればいいだけじゃん。


掃除?!うむ。さうだ。掃除だ。さうしよう。さうあるべきだ。掃除をしようぞ。


という自己暗示を受けて昨年8月に筆者の音楽制作環境 studio D.E.L を大々的に断捨離+リフォーム改造したうえで、リフォーム後のぴかぴか状態を維持すべく試みが始まった。

実は改造の大きな目的のひとつとして、スタジオ用のモニタースピーカーの設置があった。
それまではヘッドフォン(SONY MDR-CD900ST)のみのモニター環境だった。

肝心のモニタースピーカーはドイツのADAM AUDIO T7V ニアフィールドモニターを選択。
T7Vは低域が39Hzからなのでモニターする位置によっては十分な低域の確認ができる。新開発とされる独自のツイーターが若干ハイ強めに感じられるが帯域は裏面にて調整ができる。このモニタースピーカーは小音量でもしっかりと定位の確認ができるのも良い。

運用としては、細かいところは900STヘッドフォン、全体の音像や各帯域の出音などはT7Vを使用する。




リフォームというくらいなので、モニタースピーカーを導入するにあたっては、防音と防振について対策する必要があった。
モニタースピーカーは専用のスタンドに設置し振動を抑え、さらにその足元には特殊な防振シートを敷いた。



そして、スタジオの音を外に出さないために部屋の壁全面には吸音材ウレタンを貼った。吸音材ウレタンは25cm正方形の大きさで表面に凹凸のあるもので全部で150個以上使用した。


加えて床には建築用資材の業務用遮音防振シートを敷いた。業務用なので1m×10mのロール状だった。重さが20Kgでスタジオまで運ぶのに難儀した。でもハサミで簡単に切れるので、部屋中の床に敷き詰めた。

窓には吸音材が貼れないので、カーテンを全て防音用のものに換えた。壁の吸音材と防音用カーテンの影響でかなりデッドな部屋鳴りになった。

音漏れについて。
スタジオでかなり大きな音を出しても部屋の外では遠くで鳴っていると感じるくらい。特に中高域の音漏れ具合はほぼ問題なし。ただし、キックやベースなどの低域は少し感じる。低い周波数は物質を伝搬し易いから難問。課題。



スタジオのリフォームは完成した。
この整った状態を日々の音楽制作環境として維持させてゆくために、筆者は決断した。
基本は掃除ぞ。その運用にあたって、揺るぎない掟を挙げる。
燃ゆるゴミの日(週二回)の朝、スタジオの隅々をガッツリと掃除するという決断だ。日本語の文法など捨ててしまえくらいの。
既に実施9か月目継続中。いまのところ埃一つない。



週2回のスタジオの掃除、がんばってます。
1行で済む話だ。



※この文章は2098年イギリス プリマス地方のタマートン湖の湖底から発見されたポリカーボネイト板に原始的なポラリ語の一種で書かれていた文字を現代語に訳したものです



2021/04/08

(No.2599): 2008年のdeweyはこちら




この写真は第1期dewey。もう13年前。代々木のノア・スタジオで練習後にロビーで撮ったもの。
代々木のノアがまだ改装前の狭い建物のとき。
第1期deweyでは筆者はドラム担当だった。たしかこのとき、円形脱毛症があったのでキャップをいつもかぶっていた。

そもそもdeweyは電子音楽と生ドラムを混ぜこぜする音楽をやりたいために始めたのだ。
しかし筆者のへたっぴーなドラムだと、せっかくのtairaさん楽曲の良さをスポイルてしまう展開となり、そもそも自分が思い描く音像に遠く及ばないことがわかり、この数年後筆者はスティックを折ったのだった。

今にして思えば、筆者の稚拙極まりないドラミングとも呼べないあんな不様な在り様をよく人前に晒していたと思う。
結局ドラムは9年少しやっただけである。
最初は2002年頃、仕事関係の仲間で作ったブルース・ソウル系バンドにドラムで加入。ドラムは独学でやっていたが、途中からWEB通信講座でドラムの基礎を学ぶ。

ブルース・ソウル系バンド内での会話ではテクノやらエレクトロニックやらの音楽は100パー無関心。あたりまえだけど。
もっぱら60年代70年代の洋楽カバーやGSのカバーを中心に活動していた。
バンドメンバーの話す内容がほとんどわからず、唯一JBだけは知っていた。

バンドメンバ「ボ・ディドリーのヘイ・ボ・ディドリーやろうよー」
エフオピ  「????何語だ?」

しかしこのバンド、筆者のドラムでよくライブできたよなと思う。特にギターの人はChar氏と共演したこともある名うてミュージシャン(当時)だし、やりにくかっただろうと思う。

ギター系バンドでのドラムは筆者の本位ではなく、やはりギャニュギャニュとした電子音塊の中での生ドラムという音像を求めるため、deweyを結成してドラムをやったのである。
しかし、現実はそうは問屋が卸さず冒頭へ戻る。


考えてみれば、筆者がdewey結成当時標榜していた「電子音楽と生ドラムを混ぜこぜする音楽」がdewey deltaとなって結実しているのだ。
ハッチャキさんの卓越したドラミングとtairaさんや筆者の電子音塊とが混ざった音像は、正しく筆者が当時思い描いていた光景である。
上の写真を見て、そんなことを思い出した噺。

人生とは面白いものね。


2021/04/03

(No.2598): ある鰻屋の謎

 「鰻の幇間」という落語がある。
超簡単なあらすじはこうだ。
幇間(太鼓持ち)が往来でお客を漁っていたら、浴衣掛けの若旦那と思しき男が声を掛けてきた。
どこかで会ったことがあるのだが思い出せない。思い出せないが、取り巻いてうなぎ屋でご馳走になることに。
この男、実は詐欺師であった。
幇間は結局この男に騙されてうなぎ屋の勘定はもとより、数人分のお土産を持ち帰られた上に自分が履いてきた下駄まで盗まれてしまうという噺。

この噺に出てくるうなぎ屋はひどく汚く且つぞんざいな店で、店自体も傾いているし客間もぼろぼろ、そして肝心のうなぎは3年噛んでもとろっとこないほどの硬さという不味さ。
お勘定をもらいにきたお店の賄いお姉さんにいろいろ文句をぶつける幇間。

「このうなぎどこで獲ったんだい、天井裏かなんかで獲ったんじゃねぇか」


筆者は鰻が好物だ。否、正しくは、「ある鰻屋のうな重」が好物なのである。
予てから鰻好きを公言して憚らない筆者において、西は浜名湖、東は成田参道までいわゆる名物と言われるような場所へ赴き鰻を食べ歩いてきたが、
結局”その鰻屋”を超える鰻にはまだお目にかかれていない。

どのお店もけっして不味いわけではなく、美味しいのは間違いがない。だが、”その鰻屋”と比べるとそれら名店ですら霞んでしまうほどだ。

大げさな物言いかもしれないが、”その鰻屋”の鰻ときたら、うなぎであって鰻でない、まったく別の食べ物であるという印象だ。
従来のいわゆるうな重の概念が変わる。

即ち、その鰻は歯が不要なほどに、溶ける!
ほくほく。
50年以上継ぎ足された絶品タレと焼き加減、鰻とご飯とのバランスが絶妙。完璧なまでの拵え。
とにかくほくほくと溶ける。
そして、量が多い。うな重上で概ね3枚乗ってる。たまに卵焼きも入っていたりする。成人男性でも完食すると腹ぱんぱんになる。
肝吸いも美味い。
自家製の香の物も美味い。
しかも、驚くことにほかの鰻屋さんよりもだいぶ安価である。



実は”その鰻屋”は築地の某有名老舗うなぎ店の暖簾分け店である。
老齢のおやじさんが若いころ修行されていたのだろう。お婆さんとご夫婦のみで営まれている。

器、箸袋、山椒の小袋、出前の時におぼんに被せている包み紙、に至るまでこの某有名老舗うなぎ店の屋号が印字されている。

ところが、この有名老舗うなぎ店のサイトに暖簾分け店として、”その鰻屋”は載っていない。(ほかの暖簾分け店は載っている)
上述通り、本家屋号の入った小物を使用できていることからして、オフィシャルだと思うのだが謎の一つなのだ。

もう一つの謎。
”その鰻屋”は冒頭の落語にあるようなひどく汚い店構えなのだ。
時代が付いた古さというそんな粋なものではなく、だいたい入り口の破れたひさしには「ラーメン」と書かれてある。
潰れてしまったラーメン屋にしか見えない店構えだ。そもそもどこをどうみても鰻屋には見えない。


実は、その廃ラーメン屋家屋は”その鰻屋”のイートイン店内給仕用として使用されていたようで、実際の調理は2軒先の自宅兼厨房で行われている。注文もそこに行く。

しかも、数年前からイートインはやめてしまって、現在は出前オンリーになってしまった。
上の写真は昨年の夏頃に撮ったもの。現在はこの店舗は使用されていないが、営業中の時とさほど見栄えは変わっていない。

リスペクト。