2019/11/18

(No.2583): エフオピ 温泉鉱泉奇譚(その一)

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あまり知られていないが筆者は温泉・鉱泉の入湯実績は100湯に及ぶ。
しかも信じられないかもしれないが、それらは全て大学時代から20歳代にかけての数年間にだ。
1981年から1988年くらいだろうか。
前回の記事の最後に登場したウクバールの五重奏の特典CDエフオピ曲を
一緒に録音したその友人の影響である。


いわゆる温泉ブームと世間が騒ぎ出すその前の時代であり、
当時そもそも温泉地などは若い人の行く場所ではなかった。
70年代に国鉄のCMディスカバージャパンなどの影響で”日本の観光”は若い人の心を掴んだが、
とりわけ鉱泉は老人が湯治などで病を治したりするための場所が多いこともあり
観光地として成り立っているところは少なかったから(特に筆者の行ったところは)
なおさら若い男二人が訪れることが奇異にみられたものだ。
(つげ義春さんの漫画作品の影響で一部のマニアはもっと前からいたかもしれないことが
後年わかった)


所謂観光地化された有名な温泉はほとんど行かなかった。
一軒宿の温泉や湯治場など、温泉マニア向けガイドブックにしか
載っていない宿を中心に関東、東北、甲信方面を足繁く通った。
いわゆる湯治場的なところは観光温泉と違ってとても庶民的であり
つまり普通の観光客のつもりでゆくとその接客や環境に驚かされる。
(36年前の話です。今は違うよ)


100湯近くの温泉鉱泉を訪れたが、
その中で年間何十回と文字通り通った温泉がいくつかあった。
その一つが、福島県と茨城県の県境にほど近い福島県の温泉。
その温泉には三軒の旅館があり、そのどれもがオツな佇まいとお湯で迎えてくれる。
源泉36度くらいのぬるいお湯。
加熱した上がり湯もあるのだが、源泉のぬるい湯に長時間入るのが粋。
当然混浴。じいさんばあさんばかりなので我々が入ると
なんだべしたー若いのにーとよくからかわれた。

やはり醍醐味は深夜にじっくりと浸かるぬるい湯だ。
そんなときは
YMO/BGM を小さく流しながら入る。


詳細は割愛させていただくが、
実は、温泉へ行く目的の一つにテクノと温泉鉱泉の効能というテーマを掲げていた。
筆者たちは1983年にはそれを謳っていた。
時代に取り残された或いは中途半端な寂れた温泉を中心とした環境の中で
体験する創作するテクノ音楽というものが
我々にどのような効果を生み出すものだろうかという人体実験のようなプロジェクト
という体で。

録音機材やシンセを持って行って宿の中で多重録音もやった。
大きな音は出せないので、ヘッドフォンとラインで、いや実際は音を出したりもしたが。
ベータのビデオカメラ(別の友人の父親から借りたもの)も持って行って
今でいうMVも撮影した。
いやMVと呼べるしろものではなかったが、本人達はしごく真面目。いやふざけてた。


もう一つ重要なのは、温泉鉱泉への行く手段とルートと記録である。
友人も360ccの軽自動車だった。
360ccの軽自動車で下道というよりディープな旧道を好んで走った。
わざと走る。
出発は23時頃が多かった。東京都下から23区住みの友人宅へ行き
環七から6号に入りそのまま道なり。
本番は茨城県に入ってから。
午前1時に取手駅のガードを潜る時は必ず
YMO/テクノデリック 京城音楽の「パアー!」からと決まっていた。
深夜の北関東の小さな町中を360ccで走る。
茨城の某鉱泉で朝風呂に入る。そして福島方面へ。
というのがこのお気に入りの温泉へ行く時のルートだった。


温泉旅行のとき必ずポータブルカセットを持って行って
旅行行程の全てを記録していた。
車の中での様子、宿の人との会話や風呂場での湯治客との会話も録音した。
今でもその時のカセットテープがいくつか残っている。




2019/11/16

(No.2582): クルマ奇譚(スズキ フロンテクーペGXCF 編  加筆修正版)

▪️
高校を卒業する春、普通自動車運転免許を取った。
大学生になってしばらくは
実家のトヨタ チェイサー(オートマ)を運転していた。
こんなじじくさい車は嫌だ、
もっとヤングな女の子にモテるクルマに乗るんだ!
と、所謂80年代初頭の勘違い大学生は
自分のクルマに想いを馳せていた。
当時、日雇いで割の良い体力系バイトが
いくつかあったのでそれでお金を貯めて
セリカでSOLEXの4連キャブみたいなアレで
と妄想は膨らんだ。

大学の講義中、中古車情報誌を読んでいたら
なんとも格好良いデザインのクルマが目に止まった。
スズキ フロンテクーペGXCF

360ccの軽自動車!
ぜんぜんセリカと違うが何故か惹かれるのだった。
デザインはあのジウジアーロじゃないか。
一目惚れ。
エンジンは3気筒3連キャブ水冷2サイクルエンジンをリアに積む。



地元の同級生友人Nにもこのクルマかっこいいよねー
という話をしていたらあるときそいつが来て、
隣市の中古車屋にこのクルマ24万円で売ってたぜと言うのだ。
「見たい!いやちょっと待て今ちょうど1万円あるから買いに行こう」
「ほんとに?1万円ってこれ24万だよ」
「なぁにげっぷをやるんだよ、げっぷをな」
「おまえ、月賦やったことあんの?」
「ないけどさ、なんかアレだろ月払いにするやつだろう」
「あんた大丈夫?」
「ぼく、大丈夫」 
と幸宏さんのアルバムタイトルをからめて
1万円握りしめて買いに行ったのが、
筆者の最初のクルマだった。
車の購入費用には車体価格以外に車検整備代や諸経費、
税金などがかかることをまったく知らずに。


くだんの中古車屋さんは店長のおじさんが一人で経営していた。
数台の軽自動車や軽トラなどを並べて修理と販売をしている
どこにでもある町の中古車屋さんだった。
そこに赤というか汚いオレンジというか厭らしい色の
フロンテクーペが展示してあった。

勢いで来店てしまったものの、さすがに18歳の青年が
自動車を契約するのには些か躊躇がいった。
そのお店の事務所で車のことを聞いていたら、
外に展示してあるフロンテクーペを見ている通行人が現れた。
そうしたら店長が、
ほーら、また見に来たでしょ。
売れちゃうんだよねああいう車はすぐに。
と畳みかけるので本能がかかか買います月賦で!
と軽快に初車を契約した。
全部でいくらしたか覚えていないが
本当に24回払いで買った。
未成年だったので親の承諾か何かが必要だったはずだが
どうにか取り付けたのだろう。


1972年製スズキ フロンテクーペGXCF
実に良いクルマだった。
このとき1981年の6月頃か。
元の色はあずき色だったのだが前のオーナーがオールペンしたようだ。
事故車だったのか、左側フェンダー部だけ微妙に色が違った。
それがまたオツだった。

車高が低く、まるでゴーカートのようだった。
ほぼ2シーター。一応後部席はあるものの大人4人が乗ると
後ろの人は拷問を受ける。

2サイクルなので常にエンジンオイルを常備して
補充しながら走る。
筆者はフロントグリルを外し、
金網を黒く塗装したものを自作し装着していた。

エアクリーナーも楕円形のやつ(中身はスポンジ)に変えたり
プラグに装着して火花の威力をあげる的なパーツなどをつけてた。
あと、排気音を変えるためのマフラーの中に突っ込む筒状のやつとか。
 思い出した!あと、薄いピンク色の絨毯を敷いて土禁
(土足厳禁)にしてた。最高にダサい。

ローンが終わるか終わらないかの頃合いに
親の知人がトヨタマークIIを廃車にするというので貰い受ける。
フロンテクーぺは、友人Tに3万円で売った。



1983年ころ? 
写真は友人Tに売った後の実車で
アヴァンギャルド温泉旅の帰り道だと思う。
落ちてた傘をさしてテクノ音楽のことを考えている若き筆者。