2020/12/02

(No.2587): クルマ奇譚(取材受けたら思い出した青春群像編)


先日、某自動車メーカーサイトから取材を受けた。時節柄リモート取材だった。
筆者のクルマを中心としたインタビューなのだが、にも関わらず、いやー実はかれこれ15台も乗り継いでんですよーとドヤ顔をキメつつ、聞かれてもいないのに今までのクルマのことを饒舌に語ったものだからインタビューアの女性が辟易していた。

筆者は何年から何年まで何に乗っていたという車歴を記録している。なのでそれを見ると当時のこともありありと思い出せる。取材を受けながら、昔のクルマのことを思い出した。



大学時代に乗ってたのはスズキ フロンテクーペGXCFトヨタ マークIIミツビシ ランサーセレステスバルR-2だった。
最初に買ったフロンテクーペについてはクルマ奇譚に詳しい。

大学時代に買ったのはフロンテクーペだけで、あとの3台は顔の広かった母親周辺の知人からタダで譲ってもらったものばかりだ。貧乏学生なので真っ当なクルマを買えるお金などない。
そんなうまい話があるだろうかと思われるだろうが、全て廃車寸前の部品取り車扱いのクルマばかりだったのだ。
なのでスバルR-2以外は数か月か半年足らずで不動車になった。

今思うと当時1980年代初頭の大学生のクルマ所有数は多かったと思う。大学生になったらクルマに乗るんだという風潮が確かにあった。
しかし筆者はそれとは少し違ってて、クルマ自体に興味があった。



トヨタ マークIIのボディは白色だったが、おっさん臭えと自分で黒と赤のツートーンにスプレーで塗った。ひどい塗りムラになった。
当時から黒赤好きだった。今も変わらない。しかし黒赤のツートンとかおっさん臭ぇ。

忘れもしない甲府の友人のアパート前で左のドアが落ちた。信じられないことにドアのヒンジが外れて落ちた。
その甲府からの帰り道、ギアが入らなくなった。かろうじて2速には入るのでだましだまし帰った。
明け方甲州街道で警察の検問に遭う。黒赤のひどい塗りムラのうえ左側ドアをガムテープでくっつけた2速しか入らないクルマを怪しいと思わない方がおかしい。


マークIIを廃車にしてすぐ、知り合いのおばさんからミツビシ ランサーセレステを貰い受ける。
やはり廃車にするところだったというが、最初は故障らしいものにも遭遇しなかった。スタイリッシュなボディと加速感に筆者はウキウキした。
しかし、2か月ほど経った大学3年の晩秋。友人3人を乗せて武蔵五日市方面へ夜ドライブしていたとき、突然ラジエーターホースに穴が開き、しかも室内側ホースだったので緑色の臭い冷却水の熱湯がバッシャー!と運転している筆者と助手席の友人の下半身に大量に降りかかった。
前席は阿鼻叫喚、後ろの友人たちは大爆笑。
応急処置としてラジエーターホースを室内にまわらないように繋ぎ変えて、近所のスタンドから水を補充してドライブを続行した。 その冬は暖房のないクルマとして。

クルマの暖房はラジエータの冷却水を室内に引き込んでその熱を利用している。
ちなみにエアコン的なものがついてるクルマなんて当時お金持ちしか乗ってなかった。冷房なんてオプション扱いで、そんなの付けてるクルマって超ハイソサエティ者だったし、実際筆者のような輩が乗るクルマにはそもそもエアコンを取り付けられなかった。




閑話休題。
もう水冷は嫌だ。と思っていたらワンオーナーのスバルR-2、いる?と 知り合いのおじさんが声をかけてくれた。
その方がスバルR-2に乗っていることは知っていた。航続距離14万キロ!正しく譲り受けた。

360CCはフロンテクーペ以来だったが、2サイクル空冷2気筒リアエンジン、14万キロも走っているがワンオーナーだけあってとても程度の良いクルマだった。
空冷なので冬はほぼ暖房無し。当然夏は普通に暑い。でも真夏でも空冷エンジンは元気だった。冬の方が調子が悪かったかも。

マークIIやセレステよりも古いクルマだったのに結局このクルマは大学卒業してからも3年近く乗っていた。
関東はもちろん、甲信越、東北などけっこう遠出もした。長い下り坂では決まってガソリンが被ってしまって、湿気ってプラグが発火しなくなってエンジンが止まる
そんなときは、焦らず惰性で坂道降りたらクルマ止めて、プラグを外して先端をライターで焼いてガソリンを飛ばす。
そのあとプラグ付けたらエンジンがかかるのだ。
日常茶飯事。
このクルマは不動になならず、信じられないことに次のクルマの下取り車になった。




このあと筆者の車歴は1988年まではこんなラインナップ。

・ ホンダZ(雨漏りにつぐ雨漏り最後は発電機破壊で臨終)
・ ホンダ N360(三角窓は正義、日本の名車のひとつに乗れたことが誉)
・ Volkswagen Type3(初外車で車歴史上最強のトラブルマシン原宿交差点真ん中で立ち往生)
・ Renault 5GL(ふわふわサスペンションが印象的だった旧サンク)

それはまた別な話。



2020/11/17

(No.2586): 寡黙なゲール(第七話)


「ゲール、ゲールはいずこぞ」

「はは、ここに控えおりまする」

「おおゲールよ、ゲール、なんとまぁ恐ろしいほどに久しいのぉ」

「御意。 まったくそのとおりでござりまする。前回は、えーと、あれは確か、もう2年半も前のことになりましょうや」

「どうわぁえ、なんと! 強かにそんなに経つというのか」

前々回までも遡りますれば、それはもう5年とふた月も前と相成りまする」

「まことか、ゲールよ、わしはその間一体何をしておったのかの」

「光陰矢の如しと申しますが早いものでs」

「そんなことよりも、ゲールよ、11月の27日はどうするつもりぢゃ」

「は? 27日と申されますか?」

「そうぢゃ、どうするつもりなんぢゃ。どうするかをわしに言って聞かせてはくれぬかの、ゲールよ、どうするつもりなんぢゃと聞いておる」

「11月の27日でございますね。えぇーと、うーと、その日は金曜日でございますな、ちょいとお待ちくださりませぇ、もうこの辺りまで出掛かって参っておりますゆえ、えー、あああ、そうそう、そうでございます、あれですよね、あれ、デ、デウイでございますよね」

「ふふふふ、ゲールよ、少し長めの台詞で時間を稼ごうとしても無駄ぢゃ。幾たびも幾たびもわしは騙されんぞ」

「デウイのライブでございますな」

「なんぢゃ、その勝ち誇ったやうな物言いは」

「め、滅相もございませぬ。勝ち誇ったなどとわたくしなぞはそのやうなs」

「まぁよい。ゲールよ。しかしそちは間違えておるぞ。わしは言うぞ、声を張って勇しく言うぞ、デウイではない。デウイデリュタである」

「嗚呼、わたくしは、なんと、なんという過ちを犯してしまったのでせう。そうでしたデリュ田でした。どのようにお詫びを」

「ゲールよ。デリュ田ではない。デリュタぢゃ」

「ふおお、重ね重ね是非お手打ちに」

「称えよゲールよ、場所は渋谷ロフトヘブンぢゃ。エマルジョンさま、チャイナプルーブさまというエレクトロ・マスロック・テクノな名うてのミュージシャンの方々と共演するのぢゃ。しかもデウイデリュタのレコ発なんぢゃぞしかし君」

「なんとしたことでせう、これは行かねば成増まい」

「ゲールよ、なりますが成増になっておるぞ。 そうぢゃ、わしがまだ若かった頃、仕事で最重要客先の偉い人が沢山いる会議で配られた弊社の資料に「〜となります。」と書かねばならぬところを「〜と成増。」となっていて、その箇所の説明になったとき、笑いを堪えるに死ぬ思いをしたことがある。いや、マジでさぁ突然の東武東上線とか、何の笑ってはいけない選手権なの、とか目を疑ったよね、いや、実際我慢限界点超えちゃってさ「ぷ、ぷふう」と笑っちゃってさ、マジでもうその空気ったら今思い出しただけでも気が遠くなるよー」





「。。。はい?すんません、聞いてませんでした」

2020/11/16

(No.2585): 遠巒の廻廊(十五)


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遠巒の廻廊(十四)


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蔵の観音扉が静かに開き始めた。わたしと藤助は固唾を吞んで扉の奥を凝視した。

「き、君は、つまりその”お上”とやらには会ったことがあるんだろう? 指図をもらってるんだから?」

今まさにあの暗がりから現れるであろう”お上”の形相を想像して怖くなってきた。藤助の顔見知りなら有り難い。

「いえ、ひとたびもありやせん。いつも世話所てぇ役人から聞くだけなんで」
「その役人ってのは菅井って奴じゃないのか?」
「すがい?名は知りやせん」

刹那、扉の奥の暗がりから、木の箱を抱えた背広にハンチング帽の男がひょいと飛び出た。わたしと藤助はぎょっと固まった。

「ああ、こんばんは、いやこんにちはかな」

菅井だった。菅井だとわかると、急に力が抜けた。

「な、なんだ菅井さんか、てっきり”お上”かと思ったよ」
「”お上”?、ああ彼らのことですか。ちょうど良かった今日はそのことで来たんですよ」

「旦那、役人てぇのはこの方ですよ」

藤助が言うと、菅井がぶっきら棒に言った。

「藤助、おまいさんちょいと橋場の月草寺先生んとこまで使いに行ってくんねぇか。スクナ様がお見えになりますとお伝えしな。そしたらもう今日は帰(け)ぇんな」

そう言うと菅井は奥の広間に向かって歩き始めた。慌ててわたしも後を追う。
藤助は「す、く、な さま」と繰り返し菅井に頭を下げると素直に行ってしまった。

「菅井さん、スクナさまって誰?お上のことですか?」

私の質問には答えずに菅井は続けた。

「このまえ、預けたオルドビスの遺物はどこにありますか」
「え? あ、あのケースはあのまま広間のすみに置きっぱなしですよ」
「わかりました」

菅井は広間に置いてあるケースに近寄るとその前に座り、持っていた箱をケースの前に置いた。
何の箱だろう。見たところリンゴでも入っていそうな木枠の箱だが、それほど高さはない箱だ。いわゆる行李を一回り小さくしたくらいの大きさだ。

「こちらに、座ってください」

何がはじまるのか恐る恐る少し離れて座ると菅井はこちらに向き直って言った。

「箱神というのをご存知ですか?」
「はこがみ?なんです?」
「日本では今でも、あ、これはあなたの時代での話ですが、ある地域ではいまだに伝承されているところもあります。箱の中に神をお祀りする風習です」
「はぁ、その箱がそうなんですか?」
「古くは紀元前の、遠い異国で証の箱とも呼ばれていたようです。」

このシチュエーションでその箱に何か秘密があることは確実だろう。そう思うと緊張して身体がぎこちなくなる。わたしが黙っていると菅井はさらに続けた。

「少し突拍子もない事なので、おいおいお話致しますが、いや、もう突拍子もないことに慣れてしまっておりますよね。はっはははは」

菅井は愉快そうにひとしきり笑うと木箱を指でそっと撫でた。スクナ様というのはその箱神のことなのか?
「そのスクナ様ってのが、”お上”なんですか? ちょ、え?その箱の中の」
「こんつはー」

と、その時門のある戸口から声がした。
「月草寺先生、おあがんなさい」菅井が戸口に向かって叫んだ。さきほど藤助が使いに出された先の人だろうか。ここに人が訪れるなどと今までは考えもしなかった。
わたしの頭はスクナ様で占められていたが、急に現実に戻された気持ちだ。

「菅井さん、こんつは。お久しぶりですね。ここに来るのも何年ぶりだろうかね。いや、俺にとってのね」

灰色の絣の着物に羽織、矢羽絣柄の帯を締めた若旦那風の男がずかずかと広間に入ってきた。わたしよりも若く見える。40歳前後だろうか。
若旦那風と思ったのは着物だけで、口の周りは髭が伸び放題、総髪で髷も結ってない。

「月草寺先生、どうも暫くでした。お元気そうですな」
「何?菅井さんもあちこち飛び回ってるの」
「いやぁさきほど、こっちに着いたばかりでしてねぇ」
「お、あんたか、最近こっちに来た人ってのは」

月草寺先生という人が胡坐をかきつつ私を見てニヤニヤした。なんという挨拶をしていいものか、しかも最近といってももう2年も経つしな、と躊躇っていると

「この人は、月草寺先生と同じ時代から来たんですよ」と菅井が言った。
「へぇ、あんた何年に来たの?」
「2年前です」
「違うよ、こっちに来た時のあんたが居た年よ」
「ああ、2013年です」
「2013年! うわぁ未来人だね、確か、平成だったよな」
「そうです。あなたも過去に飛ばされたのですか?」
「ああ、まぁそんなところだけどね。俺は昭和43年いや44年だったよ。1969年の正月だった」

月草寺先生はそう言うと、思い出したように袂から紙包を出して「あ、これ飯倉片町のおかめ団子のみたらし。美味いよ、どうぞ」
と菅井に渡した。
「ほほー、こいつあぁどうも、ここのは餡がうめぇんだ」

菅井は「お茶淹れてまいりましょう」と言って広間を出ていった。月草寺先生はわたしに向き直ると、笑顔で続けた。

「あんた、みたとこ方言もないけど、どこ?東京?」
「あ、はい。東京です」
「東京のどこ?」
「?、はぁ、国分寺ってとこです」
「国分寺!そいじゃ府中の隣じゃない。そうかい」
「府中にお住まいだったんですか?」
「ん? いやそうじゃねぇんだけどね。あんた俺の顔知ってる?」
「??は? 」

ぜんぜん覚えのない顔。こんな髭面に知り合いはいない。
というか昭和44年ならわたしは6歳だったし覚えているはずもない。


(つづく)

2020/11/11

(No.2584): 徒でゆく(奇妙な家編)

家で仕事をするようになって8か月になった。一日中いわゆるテレワーク状態であるので、仕事を終えたら必ず歩きに出掛けるようにしている。
しかしテレワークで運動不足になったから歩きに出るようになったわけではない。筆者はもう何年も前から歩く習慣がある。
特に、ディープな裏路地をこぞって歩く。テレワーク前は仕事場から、あるいは出先から電車の二駅三駅など普通に歩いていた。

毎日最低でも4kmは歩いているが、最近の歩くコースが家の周辺が多いのは仕様がない。
よく通る住宅街の市道。車がすれ違えないくらいの道幅。両袖には住宅が並んでいる。小洒落た新しい家もあれば、昭和の佇まい住宅もある何の変哲もない風景。
筆者がその辺りを歩き始めて8か月、そこに奇妙な家が存在しているのに気付く。

その家は、比較的新しい建物でロフトっぽい3階のある木造モルタル一軒家。ぱっと見、何の印象もない普通の住宅である。
何が奇妙なのかというと、筆者が歩くのはたいてい19時から21時頃なのだが、その時間にその家の前を通っても一度も家の灯りを見たことがないのだ。
ただ玄関のインターフォンの赤いLEDが灯っている。この辺りは空き家も多いが、しかし電気は通っているのだから人は住んでいるのだろう。だいたい小さな庭には落ち葉一つないし、玄関もよく見れば綺麗に掃き清められているではないか。
しかし窓は雨戸が締まっているし、雨戸のない窓はもちろん、台所と思われる家の裏の窓も真っ暗である。だいたい玄関の常夜灯も点いていない。
そうか、何人家族か知らないがこの家の住人はきっと夜が遅い仕事なんだろう。そう思っていた。

日曜の午後。ちょうどその家の前を歩いて通った。いつもの窓は雨戸が閉まっているし、どこの窓も開いていない。昼間だからということもあるが電灯もついていない。
つまり、夜見ているそれと何ら変わらないのだ。
しかも、一度や二度ではない。日曜でも土曜でも平日でも昼でも夜でも同じ状態なのだ。

これはいよいよ謎だ。人の住まない家は荒れる。空家ならそれなりに雑草も生えるし家も傷むはずだ。しかし、相変わらず庭には落ち葉一つないし、玄関も綺麗だ。

そんなある夜のこと。いつものようにざくざくとその家の前の道を歩いていく。その家の灯り確認は日課になっており、今夜も真っ暗だなーと思いつつ玄関に目をやると、パンパンに膨らんだ燃ゆるゴミの袋が口をギュッと結んで門の内側玄関前にぽつんと置いてあるではないか。
んぐわッ!と心で叫んだのは言うまでもない。やっぱり人がいるんじゃん!灯り点いてないけど。
いや待てよ、ひょっとして前からこのゴミ袋置いてあったのかな。僕が気付かなかっただけで。あれ?明日燃ゆるゴミの日だっけ。違うよな。などと混乱しつつも、しかし何か一つ得した感じがした。

次の日の夜、当然ゴミ袋の行方を確認するために、その家の前を訪なう。
ない。ゴミ袋がなくなっている。燃ゆるゴミの日じゃないのに。嗚呼謎は深まるばかりである。

それからまた1ヶ月くらいは、何事もなく、つまり夜も昼も真っ暗で、窓の状態も変わらないし、燃ゆるゴミ袋も登場せず過ぎていった。
そしてついにその日が来た。

ある土曜日の夕方、またしてもざくざくと歩いてその家の前に来た時、筆者は今までに見たことがない光景を目の当たりにした。
1階の雨戸が開いて部屋の中に電灯が点っているのである。さらに裏の台所と思われる窓からも暖かな灯りが洩れているのだ。
うおーッ!と声に出たよね実際。達成感に満たされる日だった。人が住んでるじゃんやっぱり。よかったよー。


しかし、灯りを確認できたのはその日だけで、その日以来また静寂暗闇が続いている。あれは本当の出来事だったのだろうか。