2021/03/30

(No.2597): 新しいカタチのライブ告知(その2)五月三日

 前回までのあらすじ

1967年か68年の「おはよう!こどもショー」に筆者は出演したことがある。通っていた幼稚園がテレビ局にお呼ばれして室内運動会的なことをやった。(だと思うが正確な経緯は知らない)
当時、テレビに出るという概念を持っておらず、遠足か何かで遊園地にでも遊びに来た感覚だったことを覚えている。

Wikipediaをみたら、「おはよう!こどもショー」は1969年頃まで生放送だったようだ。筆者の年代はまだ生放送だったのかもしれない。
当時一般家庭でテレビ放送を録画することなどできなかったから、そう言われてみれば同居していたお祖母ちゃんに、〇〇ちゃん(筆者の本名なまえ)自分をテレビで見られないねとか、言われたような気がする。

だからだろうか、テレビ局が出演中のスチール写真を何枚も撮ってくれて、それをあとで記念品として貰った。その写真はまだあったと思う。どこいったかな。
確か、大きなスポンジの玉を転がす競技みたいなのをやった。目の粗いスポンジ片とかスポンジ臭もなんとなく覚えている。

放送が終わって、スタジオの出入り口のところで、テレビ局からお弁当のいなり寿司をもらって園児達や母親達と食べた。天井がものすごく高くて薄暗かったのを覚えている。

そういえばロバ君がキンキン(愛川欽也さん)だったことはもう少し大きくなってから知った。


あと幼稚園の記憶といえば、ブルーシャトウの替え歌だ。幼稚園の送迎バスの中で、大合唱した覚えがある。

もりとんかつ いずみにんにく かーこんにゃく まれてんぷら
しずかにんじん ねむーるんぺん ぶるーぶるーぶるうしゃとー

「るんぺん」という単語が出てくるところが時代だ。
そんなことしてると大人になってルンペンになっちゃうよ、と常套句で用いられていた時代。
否!ルンペン上等ぉ~と見得を切った子供時代から正しく一向に上向かない筆者が所属するdewey delta(デューイデルタ)というテクノデリック的生ドラムアンド生歌唱付きエレクトロニック音塊楽団のライブはこちら。あれとこれとそれも。
詳細しばしお待ちくらさい。

2021年5月3日(月曜祝)
Wild Side Tokyo



2021/03/26

(No.2596): 寿司屋(回らない)

 筆者は中学生の頃、深夜放送にハマっていた。ニッポン放送のオールナイトニッポン。
中2の頃が一番聴いていた。

当時パーソナリティはこんな塩梅だった。特定の曜日ではなくおおむね全部聴いていた。
(1部のみ)
月・くり万太郎
火・所ジョージ
水・タモリ
木・自切俳人
金・つボイノリオ
土・笑福亭鶴光

平日は主にカセットにタイマー録音していた。ほぼ毎日聴いていた。そのカセットテープはまだ少し残っている。44年前のカセットテープ!

自切俳人が北山修さんと知ったのはだいぶ後になってからだった。
当時タモリさんはエロ変態な話が多くて変態お兄さんという印象で筆者は好感をもっていた。所ジョージさんは当時ほぼ無名で変わった歌を作ってアコギ弾きながら歌ってるお兄さんだった。

オールナイトニッポンを聴いていくうちに所ジョージさんの曲が気に入って、結局ファーストアルバムを皮切りにその後通算LPアルバム4、5枚は買ったと思う。
大人になってから(テクノ音楽ばりばりやってるのに)CDで買ったり、iTunesで買い直したほどに今も好きだ。

そんな所ジョージさんの「寿司屋」という曲がある。
「~ 寿司屋でコーヒーが飲めるわけもなく ~」というくだりがあるが、今なら、くら寿司とかで飲めるよなーとか思ったり。

と、ここまでが枕。


筆者はこの年齢(アラカン)になっても回らない寿司屋(カウンターのみの店)が怖い。というか、ほぼ入ったことが、ぬ。
思い返せば、20歳代のときに住んでいたアパートの大家さんに誘われて(おごりで)近所の寿司屋に入ったのが最後かもしれない。いちおうカウンターのみのお店で、口頭注文の回らない寿司屋だった。
でも、このお店はご主人がだらしなくて、なんとタバコを吸いながら寿司を握るという暴挙の店なのだ。納豆巻きを注文(回らない店で納豆巻き!)したら、コンビニまで納豆買ってきます店番頼みます。って店だったから食べる方もびろびろーーんとしてればよかった。料金も回転寿司並みだった。

こういう店は好きだ。


上述のお店は特殊案件として、一般的なカウンターだけの寿司屋でも「にぎり上」とか「にぎり松」とかのセットになってるものをぱぱっと注文すれば、対応できるんじゃないの?

否、回らない寿司屋の何が怖いって、カウンターで職人とのサシの掛け合いが怖い。

今日も冷えますねー とか
今日のおすすめのネタは何 とか
とりあえずビール とか

筆者はいわゆる「大人の」、「ちゃんとした常識ある大人の」 「食」のそれ というこのシチュエーションにおける職人さんとのコミュニケーションが、もうどうにもこうにも居たたまれず怖い。
結局寿司屋に限らないのだが、「ちゃんとした」美味しそうなお店(お高そうな)は敷居が高くて怖いのだ。

若いころならいざ知らず、もう人生も半分以上経験した人物が、何を怖がっているのだと思われるかもしれないが、歳を重ねてもどうにもならないことは多いのだ。楽しい。

ちなみに、寿司屋の詞の最後にある
「救いのミコは御母の胸に倒れ切っていた」が
「救いのミコは三鷹の駅で倒れ切っていた」というバージョンもあることを付け加えて終りにしよう。ではまた。




2021/03/23

(No.2595): 床屋を訪なう。シリーズ (あとがき)

拙屑ブログのオツな床屋さんシリーズをまとめた記事「(No.2233): 床屋を訪なう。シリーズ」。

このシリーズに登場していた「昭和50年代で時間が止まった床屋さん」は残念ながら廃業されてしまったようだ。
たしか2年ほど前、お店の前を通ったらドアに張り紙。暫くお休みしますと書かれてあったのだが、その後お店は開かず、今ではシャッターが降りてしまっている。

この床屋さんの以前に通っていた老夫婦の経営する「生活用品が散乱する床屋さん」は、今でも商いをしている。
たまには行きたいのだが、しかし筆者は数年前からこのようなオツな床屋さんに行かなくなってしまった。

筆者はもともと美容院が苦手であり、こ洒落た予約必須床屋も嫌いなのだ。だから、上述のようないわゆる町の昔ながらの庶民床屋さんが好きだった。
しかしここ数年は無表情でシンプルな1000円床屋をよく利用している。予約も不要だし、日時を工夫すれば待つこともほとんどない。それに筆者のようなちょっと変な髪形(ソフトモヒカン)も対応してくれるのでたいへん重宝している。
味もそっけもないチェーン店の場合、理容師さんの出入りが激しいので、ソフトモヒカンをお願いしても毎回髪形が異なるのも気に入っている。


ちなみになぜ美容院が苦手かというと、予約しなければならないうえに、仰向け洗髪の間が持てないからだ。カットだけならまだいいが。

そうそうカットで思い出した。
二十歳くらいのころ気取って初めて美容院へ行ったときの話なんだけどさー。

受付で「本日はどのようにいたしますか」と聞かれたんで、今まで床屋しか行ったことがなかった青年エフオピは、
え?ビヨウインって受付で聞くのか?と思いつつ、「あ、はい、ここを短く刈り上げてください。もみあげはテクノカットで、ここはツンツンに立てて云々かんぬん」とさんざん希望を言ったらさ、
受付の女性美容師さんが半笑いで「カットでございますね」と言ったのよ。

そうか、美容院って、なんか「カット」だとか「カラー」「パーマ」とかメニュー化されてるんだっけ! どわちゃー恥ずかしいー!ってなって、
「・・はいカットで・・」ってぼぞっと言った後、待合で待ってる時のほかの客の視線の居たたまれなさったら半端なかったよー って話が鉄板でした。


2021/03/21

(No.2594): 一番嫌なのは自己紹介で名前を言う場面

先日のNHKドラマを観て、まったく同じ!そうそう!あるある!と思った。 

子供の頃から一番嫌だったのは自己紹介で名前を言う場面だった。
なぜなら筆者も吃音者だからだ。

特に苗字を言う時は”難発”になる。難発とは最初の一音が詰まって「きっ 。。きっ、きっ、きっ、、、」となる吃音である。ひどいときには息もできない。
吃音では特定の行(あ行か行などの行のこと)で出やすいという傾向があるが筆者も同様で出やすい行とほとんど出ない行がある。
一般の人がよく言うことに、どもってしまうのは緊張しているからだ、あがっているからだと指摘する人もいるが、それは大きな誤解である。吃音は緊張とは直接関係はない。
よく漫画などで緊張してるシーンで「な、な、なんということ!」みたいな台詞があったりするが、これは吃音ではない。あと、「噛む」という表現も吃音ではない。


子供の頃は喋るとほとんどどもっていたが、大人になるに従ってどもりにくくなったが自分の苗字や特定の行は今でもどもる。
ややこしいのが、大人になるとどもる言葉を別の言葉に言い換えて会話するので側から見るとそんなふうには見えない。
それと大人になると素の自分を隠して演技するようになる。演技中はあまりどもらないのだ。
あるいはリズムに乗ってしゃべったり、ある特定の言葉のあとに言うとどもりにくくなる、など喋る時に様々な工夫をすることで、吃音を遠ざけるようにしていた。

特に電話が苦手だ。
仕事の電話を掛ける場合、会社名や名前を言わなければならない。別な言葉では言い換えできない。
なるべくその場面を回避していたが仕事ではそうもいかず難発をかまし、発声までに長い「間」があったり、電話口で何か破裂音が断続的にしてるから 相手からはイタ電??「??もしもし?どちらさまですか?」とか何遍も言われるし、その電話を聞いている周りの連中の息を呑むさまがわかる。マジで血の気が引くという経験を何度もした。
あるとき、ある言葉を言った後に続けたらどもらなかった。この体験が脳に記録されたのか以降はその言葉を言った後だと概ねどもらなくなった。
ただし言葉のリズムのタイミングを外すとやばいけどね。へへーん

高校1年のとき、体育柔道の最初の時間、先生から、「おまえ、これ苗字なんて読むの?」と聞かれ、これはもう言うしかないので盛大にどもりながら言った。そのとき先生は無反応だったが、周りの生徒がざわついていた。
YMO増殖に収録されているスネークマンショーの「KDD」のギャグでは友達からエフオピみたいだなーとからかわれた。

しかしなぜか吃音であまり悲観したことはなく、中学の時はFMミニラジオごっこでどもりながら喋ってたし、高校生のときは喋ることがメインのアマチュア無線の資格も取ったし、「そのうちなんとかなるだろう」(植木等さんの曲)などとあまり真剣に悩んだことはなかった。
それは今も続いていて、筆者は今は勝手にこれも個性なんだと思っている。



2021/03/18

(No.2593): 提唱会と呼んでいた頃

 古い拙屑ブログをつらつらと眺めていたら、自分で書いたものなのに面白れぇなぁ、と時間も忘れて読み耽ってしまった。
そこで見つけた2013年12月の記事、deweyライブのフライヤー画像やそれに乗じて展開された雑駁な物語が楽しい。しかも、物語はtairaさん側の世界とエフオピ側世界が繋がっているように描かれている。

(No.2104): 晃一郎と吉之助(二月三日提唱会告知)




tairaさんの物語は程よい文学的な表現や構成力の高い文章、リアリティを伴った台詞で創られており、とても読み応えのある作品だ。映画の一遍を観ているように感じる。
一方筆者の方は、一部屋の中だけの物語という体で設定を狭くしてボロを出さないようにした(出てるけど)「晃一郎と吉之助」シリーズである。

おそらく最初はtairaさんがこの時代感でお話を創ったのが切掛けだったと思う。それに筆者が便乗した格好だ。
舞台は別な世界の日本の大正から昭和一桁時代を模している。ただし、筆者側にはMacBookやAbletonLiveは存在している。いわゆるスチームパンク概念の世界観。

元官吏の晃一郎(フルネームは裏神晃一郎)は上野切通停留所傍の木造二階家の二階に下宿している設定。確か階下は道具屋だった。
近所に住むまだ学生(だがほとんど通学しておらず)である吉之助は晃一郎を兄貴と慕っており、しょっちゅう部屋に出入りしている。
彼らは江戸弁を話す。これは筆者が敬愛している古今亭志ん朝師匠の粋な江戸弁が好きだからだ。
どの巻も話の筋は、晃一郎と吉之助によるdeweyライブのどえらい遠まわしな番宣の体であるが、あまりの素っ頓狂加減で何の話だかわからないようになっている。

加えて、”通りに面した一尺ほどの小窓”という文言や、季節感を表す表現をどこかに入れるというルールを自分なりに作っていた。


そんな自己満足型の典型を地でゆくこれら執筆活動(または戯言)は、今思うとdeweyのプロモーションのつもりだった。
当時deweyのライブは集客がほぼゼロに近かった。だからこうした駄文でも、ひょっとしたら誰かの目にとまってくれるのではないかと、期待をしていたのだ。
まぁ目にとまったところで、こんな物語を書いている奴らの音楽を聴こうと思わないだろうし、ましてやライブに足を運ぼうなどと思う人はいなかっただろう。


おまけ

過去ブログを漁ってたら、ハッチャキさんと初めてお会いし共演したときの記事を見つけた。まさかこの5年後に同じバンドメンバーになるとは夢にも思わなかった。

(No.2300): dewey ライブ後記(at LastWaltz)


2021/03/16

(No.2592): アニメ 漫画 本棚

先日、dewey deltaの打ち合わせのとき、どこからかアニメの話題になった。
筆者はアニメはまったくの不勉強で1ミリも話の内容が理解できなかった。
tairaさんはもとよりマネージャ氏、筆者と年代の近いハッチャキさんも普通に盛り上がっていて、話の内容があまりのわからなさに笑ってしまったほどだ。

マネージャ氏のツイートによると「エヴァンゲリオン」「ジョジョの奇妙な冒険」「ガンダム」、「宇宙戦艦ヤマト」などの話題であった。
「エヴァンゲリオン」や「ジョジョの奇妙な冒険」はまったく知らない。
辛うじて「機動戦士ガンダム」はほんの少しテレビで見たことはあるが、正直ストーリーはあまりわからない。

しかし「宇宙戦艦ヤマト」は松本零士さんの漫画単行本を持ってたし好きだった。アニメの方は70年代にやってたので観ていたと思うがあまり記憶なし。
80年代になってスネークマンショーの畠山桃内(伊武雅刀)さんがデスラー総統の声だったことを知る。


考えてみれば、子供のころからアニメに夢中になったことはなかった。もちろん観てはいたが、筆者はアニメよりも主に円谷プロ、及び東宝、大映の怪獣ばかりが好きな子供だった。

筆者はアニメよりも漫画かもしれない。
しかし漫画といっても、いわゆる少年ジャンプ等の週刊詩は読まなかった。でも単行本は買ってた。

小学時代は望月三起也さん「ワイルド7」「最前線」、水木しげるさん「悪魔くん」「ゲゲゲの鬼太郎」、とりいかずよしさん「トイレット博士」などを集めてた。
中学生になると、近所の大学生のお兄ちゃんの影響で山上たつひこさん「喜劇新思想体系」を知る。
この漫画は男子中学生にとって異常性(何をして異常かは本人次第)を伴う屈折した性教育のバイブルだった。
「喜劇新思想体系」は筆者の思春期の人格形成に多大な影響を及ぼしたことは間違いないだろう。

後に「喜劇新思想体系」から過激なエログロを消し、小学生向けに内容を薄めた「がきデカ」がそれこそアニメにまでなって大ヒットを記録したが、筆者は「喜劇新思想体系」の方が何万倍も好きだった。


大学時代以降は、サブカルチャーに浸った。
「喜劇新思想体系」もその多少一派なので、中学時代からそのケがあったのだろう。
「ガロ」誌の潮流に筆者は20歳代前半に染まる。「ガロ」の全盛期は筆者よりももう少し先輩方々がリアルタイムだろうか。

特につげ義春さんの作品には多大な影響を受ける。ご本人は意図されずに漫画表現を超えた表現という概念を創出された方。
当時(80年代中頃)売られていたつげ義春さんの本はほぼすべて購入したほどだ。
「無能の人」「石を売る」の初版の頃だったが、60年代70年代の昔の作品が収録され単行本化されていて、貸本漫画時代の作品がコンパイルされていた本もあった。漫画以外にも旅行記や日記などの作品も読んだ。
これらは今でも大事な所蔵本として本棚にしまってある。



泉昌之(久住昌之さんと泉晴紀さん)のデビュー作「夜行」もデビュー翌年頃になってからガロ誌で読んだ口だ。
いっぺんで魅了され、単行本「かっこいいスキヤキ」を買ったのは言うまでもない。以降、現在に至るまで泉昌之、久住昌之さん、QBB関連本はほぼ揃えている。
作品の端々に、あ、僕とおんなじこと思ってた人っていたんだと思わせるシーンが多い。


そうそう「ガロ」といえば蛭子能収さんの不条理漫画も好きだった。「私は何も考えない」は名作。
そんな筆者の漫画本棚の図を載せておく。

あれ、えっと、何の話だったっけ。










2021/03/14

(No.2591): 教習所(四輪)の思い出と街道版嗜好選考会

自動車の運転免許を取得したのはもう40年前になる。
高校3年の3月、大学合格してその足で実家近くの教習所に通った。

教習車は日産セドリックでギアは前進3速のコラムシフトだった。筆者の世代はコラムシフト教習車の最後の世代ではないだろうか。
当時(1981年)でさえタクシーではまだよく見かけたが、非商用市販車でコラムシフトはほぼなかったように思う。

当時の自動車教習所の教官は男性も女性も怖かった。棒切れを持ってて、クラッチ操作ができないと容赦なく左ももを叩く。
こんなこともあった。
運転席に座ってから上着のジャンパーを脱ぎ後部座席に置いたら、パンチパーマ男性教官に激高された。
「てめぇ何やってんだ!車から降りて脱げ!10年早えんだよクソガキ!」
クソガキとは多少盛ってるが、しかし本当に10年早えんだよって言われた。概ねこんな感じ。本当よく怒鳴られた。半泣き状態で教習してた。今なら信じられない。
もう40年も経っているから、ジャンパー脱いでも怒られないだろうか。


免許取得してすぐ、当時実家の自動車(トヨタ チェイサー(オートマ))を借りて
友人と初めて車で新宿まで遊びに行った。
夜で雨も降っており、青梅街道の交通量にビビりながら、さらに雨で車線がよく見えなくて、手に汗べっとりかいて緊張して運転した記憶がある。
新宿大ガード下を走ったときは、おおーこの道を自分で運転しておるぞと感動したものだった。

この1981年の初夏に自分のクルマを買い、それ以降2021年現在までに15台を乗り継いだ。
初心者マーク付けてるクルマを見ると、ああ僕も最初は緊張してたよなぁと思いだされるのだった。



ところで、長年クルマで走っていると「道」自体に好き嫌いが出てくる。(筆者だけだろうけど)
好き嫌いというよりはその「道」が面白いか面白くないかであろうか。
面白いかどうかは、「道」の成り立ちはもとより走っている時のシチュエーションの記憶による影響が大きい。

大学時代から20代前半にかけての行われたアヴァンギャルドな温泉鉱泉旅で培われた嗜好により、街道版筆者の好きな道が以下の通り選考される。( )内は好きな区間
なお選考理由の文章化は困難であるため記載できない。

・国道20号 甲州街道(八王子から塩尻)
・五日市街道 (高円寺から五日市まで全線)
・青梅街道(青梅から塩山)
・国道6号 水戸街道(茨城県内)
・国道349号(水戸から福島の霊山付近まで。以降はまだ走ったことがない。現在は幅員拡張工事等で道幅が広くなったり、バイパス化され旧道が消えたり車線が増えたりしており、当時の面影は少なくなってきてしまっている)