2024/04/10

(No.2661): フィアット パンダ3 の鬼門

 ご機嫌如何ですかエフオピです。

突然ですが
私が乗ってる車はイタリア
フィアット社のパンダといいます。
パンダ史上3代目にあたるパンダなので
俗称パンダ3と呼んだりします。
前車もパンダでした。
前車のパンダは2代目のパンダ2で
3ペダル6速マニュアルの
100HPというモデルでした。
牧歌的なパンダシリーズの中でも
アバルト臭ぷんぷんの
スポーツタイプでした。
(↓前車実車 パンダ100HP)












翻って
今乗ってるパンダ3はほんわかパンダです。
イタリア意匠が詰め込まれた独特の
佇まいで外観デザインは秀逸です。
(↓ 実車 パンダ3)









エンジンはTwinAirという
排気量875cc2気筒。
現代の車とは思えなない
オートバイのようなエンジンで
振動あり音もバタバタですが
高い効率で馬力を叩き出しているので
まったく非力ではありません。
デザインを含め一番のお気に入り。


しかし
そんなパンダ3にも鬼門があります。
それは「デュアロジック」です。


「デュアロジック」とは
マニュアルをオートマチックに
無理やり変える機構のことで
フィアットパンダをはじめ、
フィアット500にも搭載されています。

パンダ3のトランスミッションは
前進5速後進1速のマニュアル
トランスミッションを積んでいます。
そのクラッチとギアチェンジを
人間がやらずに機械で自動化するために
取り付けられた付加装置を
「デュアロジック」といい
2ペダル構成になっています。

従って「デュアロジック」は
一般的なオートマチック車の
自動変速トランスミッションや
無段変速CVTとは全く異なる
仕組みなのです。


この
「デュアロジック」が曲者で
ほぼほぼ故障する箇所として有名なのです。
「デュアロジック」が故障した話は
枚挙に遑がありません。

何しろ、マニュアル車なのに
クラッチとギアチェンジを機械で
操作するようにしてるので
それは無理があります。

最も多い故障は
走行中にギアが入らなくなる
という致命的なものです。
そうなったらレッカーしかありません。

「デュアロジック」の仕組みは
油圧でクラッチ操作とギアチェンジを作動
させています。
その際40~50バールという
高い圧力が必要でその圧力を
常駐させておくアキュムレータという部品が
劣化することにより圧力が維持できず
減圧してしまい変速不能に陥ります。


そして
その修理は概ね
「デュアロジック」アッセンブリー
全体の新品交換となり〇十万円以上
の出費が確定です。

10万キロ走っても壊れなかった
というケースもあるようですが
6万キロあたりから危ないという話が多く、
3万キロ台でも壊れたという例も聞きます。

私のパンダ3は現在3万5千キロくらい。
車検も2回通しています。
そろそろ用心しないといけない時期に
近づいております。
確実な予防策はないらしいですが
デュアロジックオイル交換の際に
くだんのアキュムレータを単体で
交換することが可能ならば
多少延命できるのかなと思っています。


そして別な話ですが
誤解を解くために追記。

私のパンダ3に同乗した方は
止まるときガクンとして
エフオピ運転荒いなーと
思ったことがあるかもしれません。

それは誤解です。

停止速度のガクンとするエンジンブレーキは
私が操作しているのではありません。
全てきゃつ→
「デュアロジック」が操っているのです。


私は普段オートマチックモードでは運転せず
マニュアルモードで自分の意志で
ギアチェンジしています。

ちなみにオートマチックモードで走ると
自分の意図しないタイミングで
ギアチェンジするので車との間合い、
呼吸が合いません。
まるで初心者が運転するMT車に乗っている
感覚になります。

マニュアルモードでもシフトダウンは
自動で操作されてしまいます。
そして全てのクラッチ操作は
「デュアロジック」の制御下で行われます。

なので、
停止速度で1速に自動シフトダウンしてしまい
しかもガツンとクラッチを繋げるので急激に
エンジンブレーキがかかってしまうのです。

急激なエンブレがかからないように
シフトダウンされてしまいそうな
タイミングでニュートラルに入れて
調整することもやりますが
「デュアロジック」が壊れそうなので
あまりやりません。

てか、
もう鬼門「デュアロジック」取っ払って
普通にマニュアルにしたい!


現場からは以上です。


2024/04/05

(No.2660): 床屋を訪なう。(賛美編)

久々のこのシリーズだが、最近書かなくなったのは
くだんの床屋さんへ行かなくなったわけではない。
むしろ月2ペースで通い続けている。
今では顔を覚えられてしまったほどだ。

書かなかったのは特に記する事象がなかったからだ。
いや厳密にいえばこのシリーズで取り上げた数々の
エピソードは毎回のように発生していた。
しかし今では慣れてしまい口角があがることもだいぶ減った。

とはいえ先日訪なった際にちょっとした事象があったので
記録しておこうと思う。


平日の夕方時間帯に入店。
お客さんが混んでいて驚く。
普段この床屋さんで待つことはあまりないのだが
この日は1時間近く待った。
もう少しで閉店時間になってしまう頃合いで自分の番が来た。

担当は大柄な店長っぽい理容師さん。
早速蒸しタオルで頭をターバン巻きにするかと思ったら
今日は無造作に蒸しタオルを頭にボンッと乗せ
タオルで髪の毛を掴み、まるで蕎麦粉を捏ねるように
ぎゅうぎゅうぎゅうと頭を押さえつけるのだ。

痛ッ!何!?と思ったら今度は
タオルで耳を隠すようにしてから
両耳をタオルごしにぐぐぐぐぐと頭蓋骨を破壊するように
両手で押しつぶしてきた。
痛ッ!ぐは!
蒸しタオルで数分間待つ時間がもったいないとみての
時間短縮の技なのだと悟った

頭からタオルをはがすと同時にバリカンで
ビュギュービュビュビュギューイーンと
ものすごい勢いで刈り始めた。
な、なんちゅうスピードだ。
今までにない手早さ。
ハサミのターンになってもその速度は衰えず
腱鞘炎を心配するほどの素早い動き。
シャキシャキシャキシャキと
BPM170の32分ハイハットくらいの速さだ。

閉店時間がもう目の前なのだろう。
早くあがりたい!一心なのが手に取るようにわかる。
これはその後の洗髪・髭剃りは覚悟がいるなと思った。
そう思ったら久々に口角があがりそうになったのを
ふんッと堪えた。


案の定、洗髪はそうとう雑だった。
いや雑というか、作業速度がべらぼうに速いのだ。
制御が失われつつあり手の圧の力が半端ない。
これは命懸けだ。
シャンプーの飛び散り方もすごい。

洗髪後いつものように襟回りをびちょびちょにしながら
起き上がりしなマッサージタイムに突入、
ガーンガーンと頭部を殴打され、一瞬恐怖を覚えるも
文字通り命懸けだなと思ったらふふふと笑ってしまった。

筆者が笑ったことにも気づかず即座に椅子は倒され
髭剃りに移行。
以前、この理容師さんが蒸しタオルを筆者の顔に乗せたまま
5分ほど店の外に出て行ってしまい

帰ってくるまでじっと待っていたことがあったが、
この日は僅か10秒でタオルは解かれた。

ええ?!早ッ!と思ったら笑いがこみ上げてきた。
まずい。
顔面は正式に天井を向いており
何も隠せないあらわな姿のままなのだった。
しかも理容師さんもこちらを見ているこの状況で
口角があがるのは 大変まずい。

ににんがし、にさんがろく、にしがはち
と九九を唱えてなんとかギリギリ持ち堪え
髭剃りも終わった。

そして最後に顔にクリームを塗られたとき
次の試練がやって来た。

急いで雑に塗るもんだから
鼻の片穴にクリームがスンッと入った。
おうふ!
クリーム塗った後、乾いたタオルで
顔を一回拭かれるのがお決まりのコースなので
タオルでうまく拭いてくれるのが一縷の望みだ。
果たして顔を覆ったタオルの端に
鼻穴のクリームがうまいことくっついて取れてくれた。
うおー、やったすごい!
と思ったら笑いの決壊が崩壊した。

完全にぐへへへと笑った状態で椅子が起こされたので
ヤバい!と思わず下を向いていたら、
ぐいッと顔を正面に向かせられた。

鏡に映った筆者の顔は口が波になっていた。



2024/03/29

(No.2659): 早春講談 わたくしの音楽遍歴 (聴く方) 

2月9日 WildSideTokyoでのdewey deltaライブで
珍しくカバー曲を演った。
tairaさんも選曲されたのでそれではと私からもひとつ加えさせて頂いた。
それはYMOの1981年のアルバム「BGM」に
収録されている「CUE」という曲である。


YMO BGMのこと
筆者が音楽、というかテクノという音楽をやりはじめた
切っ掛けはこの「BGM」を聴いたことに由来する。
「BGM」はリアルタイムで聴いた。
「BGM」以前のYMOはもちろん知ってはいたが
正直、「ライディーン」や「テクノポリス」といった
商業的に大成功した有名楽曲には当時ほとんど興味がなかった。
ひょんなことから「BGM」を聴く機会があって
一聴してひどく驚いた記憶がある。
そして強く惹かれていった。
当時それまで音楽をちゃんと聴いてこなかったこともあり
今まで聴いてきた音楽とはまったく違う印象を持った。
当時、あの世界線で生きていきたいと想った。

そんな思い入れからの選曲。
実は「CUE」を自身のライブで演奏するのは38年ぶりだった。


音楽嗜好遍歴
80年代
クラフトワークは「BGM」や「テクノデリック」直後に
後追いで聴いた。
テクノ音楽に自身の方向性を確信した。

派生してウルトラヴォックスヴィサージなどUKの
ニュー・ウェイヴ勢に傾倒していった。
そして
ヤズートーキング・ヘッズヘブン17
クリス&コージーニューオーダー
ゲルニカ戸川純メロンなど。


90年代
YMOの呪縛から逃れられず80年代を引きずっており
新しい曲は平沢進ソロを聴くくらいだった。


2000年代以降
自身のユニット活動からクラブ系テクノに傾倒。
アンダーワールドケミカルブラザーズオウテカ
エイフェックス・ツイン、などいわゆる王道を。
(↑この動画クリス・カニンガムのやつだからえぐいヨ)

そして、マウス・オン・マーズに出会う。
彼らは90年代から活動していたが
筆者が知ったのは2002年ころ。
筆者の標榜するすべての電子音楽要素が
具現化されている音像。
以来、来日したときは必ずライブを観ている。
ドラムが入った3ピース時代が最も好き。
dewey deltaと同じ構成だが全ての次元が違い
到達できない境地。



2024/02/14

(No.2658): クルマ奇譚(オースチン・ローバー ミニ メイフェア 編)

 前回のあらすじ



1989年1月。
Mini Mayfair (ミニ メイフェア)を納車。人生初めての新車。
Miniといっても、現在街中で見られるBMW MINIではない。
サー・アレック・イシゴニスの設計として有名な
イギリスのBMC(ブリティッシュモーターコーポレーション)
Miniである。

筆者の購入したときはAustin Rover Miniというブランドだった。
日本のディーラーもAustin Rover Japanと言った。
そして筆者が買ったMiniは左ハンドル!
ご存知とは思うがイギリスは日本と同じ左側通行で右ハンドル。
それなのに左ハンドル。
その理由とは。


当時のディーラ車Miniはメイフェアとスプライト
という2種類のタイプのみだった。
1991年にはミニ・クーパーが復活するがそれまでは二者択一。
スプライトはメイフェアの廉価版的なモデルで、
フロントグリルのデザインがいまいち格好悪かった。

車体の色が赤と黒くらいしかなかったと思う。
白もあったかな。忘れた。
メイフェアでもっと違う色の在庫車は
ありませんかとディーラーのお兄さんへ尋ねたら
紺色があります、でも欧州仕様の左ハンドルなんです
というではないか。

どこの世界にMiniの左ハンドルを買う奴がいるのかと。
イノチェンティ・ミニでもあるまいに。
とその時は思った。

ところが、
数日経つとじわじわ想いが変化してきた。
まず紺色がいい。
しかもよく考えたら左ハンドルのMiniなんて希少車だ。
ゴーカートのようなきびきび走るその操作を
左ハンドルでやるのがまた面白いに違いない。
というわけで紺色欧州仕様のMini Mayfairとなった。


1991年5月 実車
横に突っ立ているのはエフオピ28歳の輩



Mini Mayfairには改造も施した。
簡単なところではフロントグリルとミラーを交換。
ミラーはドアミラーからフェンダーミラーに。
少し昔のMiniの雰囲気に。

そして、マフラーをセンター出し1本に換装。
当時Miniの排気系チューンでは流行ってた。
サイレンサーが黄色塗装されて排気音も太かった。

それと天井に穴を開けてキャンバストップ仕様に改造した。
これも格好良かったし、ルーフを開けて走るのも楽しかった。
雨もりは一切しなかった。


Miniは故障が多いなどと知ったようなこという輩がいるが
それは全て迷信だ。
その真実は1970年台後半から1980年台前半まで
国内正規ディーラーがなかったので
未整備の古いMiniが出回り故障が頻発したことから
そんな迷信が生まれたのだと聞く。

ちゃんとメンテナンスすればまったく故障しない
とても優秀な車だ。
実際、筆者は8年間で2台のMiniに乗ってきたが
純正箇所が故障したことは一度もなかった。

1991年頃。
当時、鎮西さんもMiniに乗っていた。
色はシルバーのMini 1000だったと思う。
メイフェアよりも少し古いタイプ。
2台でツーリングがてら、富士スピードウエイで開催していた
Miniのお祭りイベントへ一緒に出掛けたりした。


そして1992年になるとインジェクション仕様の
1300ccのMini 1.3iが発表された。
ちょうど車検の見積りでディーラーを訪れたら
インジェクションのMini、馬力もアップ、
今度は右ハンドルで、レーシンググリーン色もあります。

という悪魔の囁きをディーラーのお兄さんから聞く。


(ローバー ミニ メイフェア1.3i編へ 続く)



車歴参考年表








2024/02/11

(No.2657): クルマ奇譚(ルノー5TL 編)

 前回のあらすじ



1988年2月末
ルノー5納車。(ルノー サンク)
ルノー5GLだと思っていたが、この記事を書くにあたり
改めて確認したがGLというグレードはなくTLかGTLだった。
なので、たぶんTLだと思う。
そして年式は1979年だと思っていたが、
wikiによると1979年式TLだと排気量は956ccということだ。
今まで1300ccだったと思っていたのでわからなくなった。
ワンオーナーのディーラー車と聞いていたのだが
ひょっとすると並行輸入車だったかもしれない。


しかし当時の筆者はそんなことはどうでもよかった。
フォルクスワーゲン・タイプ3のトラブル地獄から
解放された喜びが大きかった。

所有車では初めての左ハンドル。
フランス車ルノーの真骨頂である優れた乗り心地。
ふわふわだった。
カーブする時けっこう身体が持って行かれた。


そして打って変わって故障らしい故障はなかった。
2速で加速する時に、時々ノッキング症状があったくらい。
修理というかメンテナンスとして、
コンデンサを新品に交換したことと、
忘れてしまったがどこかのゴムのブッシュが劣化して
抜け落ちてしまったので部品を取り寄せて
それを車体下にもぐって自分で交換した程度。



1988年4月頃 ルノー5運転中のテクノカット筆者25歳




実車の写真



車体色は写真の通りオレンジ色だった。
この色のルノー5は希少車だと聞いたが真偽の程は知らない。



1989年5月頃⇒訂正1988年12月頃(当記事を公開した後に判明) 
加速時のノッキング症状はそれなりに発生したが
普段乗りであれば特にどうということもなかった。

ルノー5に乗ってから、欧州車についていろいろ情報を
集めるようになった。
当時はネットなどないので概ね外車専門誌などで情報集める。
そして
そんな欧州車情報の中から筆者の琴線に触れたのが、
フィアット パンダとオースチン ミニだった。


当時、山手通りと早稲田通りの交差点の角に
Jという大きな外車ディーラーのお店があった。
そこに同級生友人Nとフィアット パンダの試乗に
ルノー5に乗って出掛けた。
(今思えばなんと羨ましいことかと思う。
だって初代パンダの新車だよ)

フィアット パンダのダッシュボードは布製で
ハンモックみたいになっており、友人Nが
しょぼい、なんだこれ布だよ
と、驚いていた。
そして、友人Nが外気取り入れノブを操作したら
ピコっとつまみが取れてしまった。
ええこんなにちゃちいの?
エフオピやめといた方がいいよこの車
あんたどうするまたガソリン、ピューってなったら
と筆者を諭すのだった。


当時、筆者も友人Nも若かった。
フォルクスワーゲン・タイプ3のトラウマもあり
そ、そうだね、やめておこうという
結論になった当時の筆者をここに呼んで
2、3時間お説教したいところだ。

(ちなみに今では友人Nはあの時
あんたに勧めてればよかったよ
あいつら全然わかってないね
と言ってる)



そんなことがあったその少し後。
自宅近所を走っていたら、
なんとオースチン・ローバーの
ディーラー店ができているのを発見する。
お店にはミニが何台も展示されている。

これを運命と言わずして何が運命ぞ
急転直下、早速ミニを試乗する。
やばいなんて楽しい車なんだ!
いやこれは車ではない
ミニだ。
ミニという別な乗り物だ。

イギリスの車はオーバーヒートしたトライアンフを乗ったが
ミニは新車だし。そうだ新車だよ。
まっさらの工場出荷そのままの新車を買うか!
まじか、ついに、このぼくが新車を。
ディーラーのお兄さんに
ルノー5は下取り可能でしょうかと聞くと
もちりん大丈夫ですという回答に食い気味で
かか買いますと言った。


オースチン・ローバー ミニ メイフェア編へ 続く


車歴参考年表







2024/02/10

(No.2656): クルマ奇譚(フォルクスワーゲン・タイプ3 編 エピソード4)

前回のあらすじ


筆者はこの頃ICONOMIXというテクノユニットを
友人Y氏とやっていた。
1987年12月31日
大晦日に路上ゲリラライブをやろうということで
フォルクスワーゲン・タイプ3
シンセ2台、DAT、アンプとスピーカー
そして発電機を積み込んで渋谷の代々木公園通り
代々木公園近辺まで行った。

夜、NHK紅白の終わる頃を見計らって
代々木公園の道路側で音を出した。
YMO/BGMの楽曲を中心にやる予定だった。
1曲目の「バレエ」を演奏始めたら見物人が集まって来た。
ところが年末警戒にあたっている警察官数人も
すぐにやって来て中止させられた。

組んだと思ったら、すぐバラシ。
37年後もまだやってるとは。


1988年1月1日
年が明けた深夜のその帰り道、
欧州中古車販売店Wに寄った。
当然お店は閉まっているが、外に展示している販売車両に
気になっている車があったので見に行きたかったからだ。
それはルノー5だった。(ルノーサンクと発音する)

年末にお店に入って来たのは知っていた。
ワンオーナーで程度がいいという話だったし
フォルムも格好良い。
あの車はきっと故障はしないんだろうな
という予感がビビビときていた。

Y氏が、もう買っちゃえば!とけしかけていたが
いやー買えないよーとその場は答えておいた。
しかし本心はかなり揺らいでおり、
もう故障しない車に乗りたーいと心底思っていた。


そしてそれが決定的となる。
梅の花が咲き始めた2月頭。
仕事の帰り、フォルクスワーゲン・タイプ3で
井の頭通りを走行中、突然ギアが1速にしか入らなくなった。

デジャヴ?!昔マークIIのときにも同じように
1速にしか入らなくなったことがあった。
あのときは固着している感じだったが
今回は1速以外スカスカ。

運の良いことに(運とは?)
欧州中古車販売店Wに近い場所だった。
エンジンは回っている。
走れるんだから上等じゃぁないか、なぁ君。
もはや半笑いで1速だけで走る。

お店に着くなり筆者は社長にこう言った。
ぼくにはもうこの車に乗る資格はありません
ルノー5と交換してください。

さすがに交換というわけにはいかなかったが
かなり融通をして頂き
フォルクスワーゲン・タイプ3を下取り
ルノー5を契約した。


後日談
その1ヶ月後くらいに某中古車情報誌を読んでいたら
筆者のフォルクスワーゲン・タイプ3が
相模原の中古車屋さんで60万で売りに出ているのを見た。
諸行無常。



ルノー5TL編  へ続く


車歴参考年表


2024/02/08

(No.2655): クルマ奇譚(フォルクスワーゲン・タイプ3 編 エピソード3)

 前回のあらすじ


またか!と焦りながらセルを回すが
当然のようにエンジンは掛からない。
渋滞が動き出しても
筆者のフォルクスワーゲン・タイプ3は不動のまま。
後ろの車がプップーとクラクションを鳴らす。
わかってますわかってますいまやってます!


万事休す。(二回目)
何度もセルを回して神に祈った。

運の良いことに(運とは?)
ちょうど目の前がN区警察署だったので
どうされましたー
と警察官の方が出てきてくれた。

エンジン止まっちゃってかからないんですうー
と半泣きで告げると、
ここではまずいから、路肩へ寄せましょう

そう言って警察官の方数人と筆者で
道を挟んだ警察署の向かいにあった工務店の
空き地へ車を押してくれた。

警察なので交通整理もしていただきつつ、
工務店の方へも
少しの間車を置かせてくださいと交渉して頂いた。

警察の方に事情を話し
これから一晩仕事に行かねばならぬので
明日の午前中までここに車を置かせてください
とお願いし、この日は地下鉄で仕事場へ行った。


くだんの欧州車中古車販売店Wへ連絡。
それは大変でしたねーちゃんと修理しましょうか
ということになり、(いまごろ?)
夜のうちに社長さんとメカニックさんが
メルセデスベンツ!でフォルクスワーゲン・タイプ3を
引き取りに向かった。
ベンツにけん引されてお店まで運んだとのこと。

結局
電装系の部品を新品に交換することになり
2~3週間入庫ということになった。



代車あるからこれに乗ってていいですよ。
と社長が言ったその代車はなんと
トライアンフ TR7だった。

現在筆者が乗ってるオートバイと
同じメーカートライアンフ。
トライアンフは昔は四輪も作ってた。

この車、とてつもなく車高が低く、
極端な言い方をすれば寝そべって運転する感じ。
今はなきイギリスの誇る2シータースポーツカーだ。
代車の色はあずき色だった。
低音のエキゾーストノイズがまたそそられる。
代車なのであまり遠出はしなかったが
それでも借りている最中はけっこう乗った。


しかしこのトライアンフ TR7もまた一癖あった。
水温計がすぐに高い値を示すので
クーラントを補給するが、すぐにまた上がる。
確認したら案の定ラジエーターから冷却水が
漏れている。

おいおいまたクーラント浴びたりしないよな
と思いつつ、まぁ代車だからいいかと。
乗るたびにクーラントを補給していた。

ある日クーラント補給をせずに近所を走っていたら、
水温計がMAXオーバーヒートしエンジン付近から?
白い煙が立ちのぼった。

少し先にクリーニング屋さんがあったので
事情を話して水道水を分けていただいた。
やかんに入れた水をラジエーターに直補給。


欧州車中古車販売店Wから修理完了と連絡。
短い間だったがトライアンフ TR7に乗れて楽しかった。
ラジエーターから水漏れてましたよと伝えておいた。

さぁ、
生まれ変わったフォルクスワーゲン・タイプ3
これでエンジンも止まることはあるまい。
確かにその後は順調快調だった。
しばらくの間は。
そして1987年12月年末。



フォルクスワーゲン・タイプ3編 エピソード4 へ続く


車歴参考年表




2024/02/07

(No.2654): クルマ奇譚(フォルクスワーゲン・タイプ3 編 エピソード2)

 前回のあらすじ



そんな納車日のハプニングがあったものの
筆者のフォルクスワーゲン・タイプ3
そのあと1ヶ月半くらい(短か!)はとても快調に走った。
たまたま空いた平日の初秋、
山梨県O市までぶらっとドライブしたり。
クワイエットマフラーの重低排気音が心地よい。

とはいえ、
納車日のガソリン漏れ事件があったので
自分でできる範囲でエンジンルームの整備はしていた。
いや、整備などではなく素人が部品の劣化などを
目視するくらいだが。


1987年10月下旬のある日。

数日前からエンジンの掛かりが悪かった。
でも何回かセルをまわせば点火していたので
それほど気にしていなかった。

人を乗せて都内を走行中のこと。
場所は、
原宿駅の先、明治神宮前の代々木公園通りと
渋谷のファイアー通りとの交差点。
そこを原宿駅方面から代々木公園通りへと
右折するため交差点の真ん中まで進んだら
突然エンジンが止まった。

焦ってセルを回すがまったくエンジンは掛からない。
セルは元気に回る。
燃料ポンプの機械音もしているので燃料は流れている。

クレイジーキャッツ植木等さんの「ハイそれまでヨ
の2番歌詞とまったく同じ状況。
ガタンと止まって、ハイ、それまーでーヨ〜

万事休す。このまま交差点の真ん中で
止まっているわけにもいかない。
同乗者にも車から降りてもらい、
二人で押してなんとか代々木公園通りの路肩まで寄せた。

あの場所をご存知の方なら想像して欲しい。
あの場所で交通を妨げながら車を押してる図。
見物人まで出る始末。
1987年とはいえ現在と変わらぬ交通量
むしろ当時の方が多かったくらいだ。
人もたくさん歩いてた。


路肩に止めて少しほっとしたが
エンジンは一向に掛からない。
近くにあった公衆電話ボックスから
欧州中古車販売店Wへ救助要請を掛ける。

社長が電話に出たので状況を説明したら
エンジンのここを見てください、
などのいくつかの確認ポイントを教わった。
今のようにスマホなんてない時代なので
電話を切ってから車に戻り、
今聞いて覚えた内容でなんとか作業してみた。

もうハッキリとは覚えていないが、
コンデンサの取り付けがガタガタで
接触不良が原因ぽかった。
しかし結局コンデンサ自体も
不良だったことがあとからわかる。

果たしてエンジンは掛かった。
掛かりましたー!(泣)
と折り返し電話したのは覚えている。
また止まったらいつでも連絡ください
と社長は言って電話を切った。


その日は自走できたので帰れた。
ところが、それから2週間くらいしたある日。

その日は夜からの仕事だったので、
午後に仕事場へ向かって青梅街道を走行していた。

東京N区あたりの青梅街道。
16時頃だったと思うが新宿方面が大渋滞で
まったく動かない。
フォルクスワーゲン・タイプ3のアイドリング
重低排気音とカーステレオでYMOのテクノデリックを
聴きながら、仕事間に合うかなー、
などとぼんやりと想っていたら突然
エンジンがガタンと止まった。
またか!


フォルクスワーゲン・タイプ3編 エピソード3 へ続く



車歴参考年表



2024/02/06

(No.2653): クルマ奇譚(フォルクスワーゲン・タイプ3 編 エピソード1)

 前回のあらすじ



欧州中古車販売店Wは、
社長(40歳くらい)とメカニックさん(20歳代)の
2名で営業していた。
お二人とも面倒見の良い人たちで、欧州車についてまったく
知らなかった筆者にいろいろなことを教えてくれた。

このお店は中古のポルシェを中心に扱っており、
国内はもとよりヨーロッパ各国から直接買い付けるという。
もちろんポルシェ以外の欧州車も広く扱っていた。
その中にこのフォルクスワーゲン・タイプ3があった。


1987年9月吉日。
欧州中古車販売店WにてホンダN360を下取りとし

訂正:  下取りはできずKモータースへ売却


フォルクスワーゲン・タイプ3を納車した。

1972年型の2ドアノッチバックセダンで色はガンメタ。
2本出しのクワイエットマフラーが唸る
空冷水平対向4気筒エンジンをリアに積んだRR、
電子式燃料噴射いわゆるインジェクションを搭載した
1600ccモデル。
ディーラー車だったのでハンドルは右だった。
確か車体価格が62万円の値札がついていたと記憶する。

車体や内装は年式相応にヤレていたが、
なんというか押し出し感があって力強さがあった。
大好きな三角窓も装備。
クワイエットマフラーという名前なのに
排気音が重低音爆音だったのも気に入った。



最初にこの車の洗礼を受けたのは、
いきなり納車の日だった。

欧州中古車販売店Wで車を納車後、
一旦自宅へ戻り地元同級生友人Nを乗せて、
新宿のディスコへ行くことに。
ガソリンを満タンにして、
重低域排気音を奏でながら走っていると、
ねーガソリン臭くない?と友人Nが聞く。
うむ言われてみれば確かにさっきからガソリン臭い。
ガソリン満タンにしたからじゃないの?
そうかなーでもそんなことある?


ガソリンスタンドよりもむしろガソリン臭がする車内。
これは只事ではない。尋常ではない。
急いで車を路肩に停めエンジンを切る。
エンジンルームのあるリアラゲッジを開けようと
車の後ろに回ったら、
液体がこぼれた跡と思われる染みが
道路に線を付けているのを見た。

この液体は間違いなくガソリンだろう。
マジで?ガソリンが漏れてる!

慌てて車の下をのぞき込む。
ぽたぽたと液体が滴っている。
すぐにエンジンルームを確認したら
燃料ポンプと思しき部品を中心に
エンジン全体が夥しく濡れている。
この臭い、けっして水ではなく
ガソリンである。びしょ濡れ。

いや、漏れすぎだろうガソリン!
てか、危険!危険すぎる!
タバコ絶対禁止と叫ぶ両名!
(当時はタバコ吸ってたので)
道路路面に描かれた漏れガソリン跡は
すなわち導火線と等価である。

運の良いことに、(運とは?)
欧州中古車販売店Wに近い場所だったので
お店に戻るため恐る恐るエンジンを掛けて、
ゆっくり急いで向かった。


社長さんに
ガソリンが漏れているようなんですけどと言うと
ちょっとみてみましょう、
ああーだいぶ漏れちゃってますねー
燃料ポンプかなー
と言ってエンジンを掛けた。

アメリカのアニメで見たことのある
溺れた人を助けたら口から水をデフォルメされた
噴水のようにピューっとM字になっている映像。
正しくその情景が燃料ポンプのゴムホースの亀裂から
ピューっとガソリンの噴水。
筆者と友人Nの顔に縦線。

社長は明るく、
ここのホースが劣化しちゃってたんですねー
交換しておきましょう。

いや、納車前にやっておいてくださいマジで
と心で叫んだ。
また切れるとアレだから、これ差し上げますよ。
と新品の交換ホースを頂いた。

社長は言った。
「古い車だからこんなのは普通ですよー
これくらいは自分で直さないとねーあっはははh!」

このセリフは今でも友人Nと笑い話として語り継がれている。
なお、この時ガソリンを満タンにしたのに
欧州中古車販売店Wに着いたときはほとんど空になっていた。
よく火災や事故にならなかったと思う。

カルマンギアの大人しい版といった佇まいが素敵な
フォルクスワーゲン・タイプ3であるが
快調に走っているときはこんなに楽しいのに
筆者のフォルクスワーゲン・タイプ3は
すぐに機嫌を損ねる厄介な車だった。

この納車日の出来事は予兆に過ぎなかったのだ。



フォルクスワーゲン・タイプ3編 エピソード2 へ続く



車歴参考年表




2024/02/05

(No.2652): クルマ奇譚(ホンダN360 編)

 前回のあらすじ


ホンダN360は4サイクル空冷2気筒SOHC360ccエンジン
前輪駆動で4速トランスミッション。
シフトレバーはシトロエン2CVと同じダッシュボードから生えている。
三角窓がありベンチシートをあしらった素晴らしい名車だ。

購入したN360は1968年式だったと記憶している。
内外装共に非常に綺麗で、茶色の偽革シートが
ピカピカ光っていたのをよく覚えている。
機関も好調でまったく問題はなかった。
色はシルバーグレーだったように思う。

友人TがNIII360に乗っていたので、
並走するとそれは見応えのある絵になった。
しかも大学時代の友人KがホンダLIFE360を買ったので
1987年のゴールデンウィークにはN360、NIII、LIFEの
ホンダ360ccシリーズ3台揃い踏みで
福島方面へ温泉ツーリングへ出掛けた。
その旅で3台を並べて写真を撮った記憶があるのだが
残念ながらその写真が見つからない。

N360で走るのが楽しくて
北関東、東北などアヴァンギャルド温泉鉱泉旅で
ずいぶんと走行距離を稼いだ。
エンジンは快調だが山などでの長い急な登り坂では、
パワー不足でけっこう息切れもしていた。
そんな時は一般後続車を先に行かせるなどして
特段不便も感じなかった。
面倒くさいことが楽しかった。

故障らしい故障はなかったが、
唯一筆者自身のミスで修理したことがあった。
スパークプラグを交換したときに、
エンジン側のネジ溝を誤ってナメてしまった。
プラグ締め込みが十分にできない状態なので
圧が抜けてしまい1気筒爆発しなくなった。

片側の1気筒エンジンのまま
近所のホンダディーラーへ駆け込んだ。
外様の飛び込みで、且つ面倒な古い車なのに
メカニックの方はとても丁寧に対応してくれた。
幸いにもその場でネジ溝を正しく切って整えてくれたうえに
退店する際には
「ホンダの古い車に乗っていただいてありがとうございます!」
とお礼まで頂いた。
そんなことされたら一生の車を手に入れた感慨に耽りたくもなる。


しかし、人間とはなんと業の深い存在なのでしょう。
立川談志師匠は、落語とは”業の肯定である”と仰っていた。
どうしようもない人の行いや想いを肯定する世界の存在は
我々にとって大いなる救いになっている。

環境の変化など何かの切っ掛けで人の嗜好は
ガラッと変わることがある。
そんな想いの全てを肯定しようと
1987年夏の終わり頃、
筆者はN360を降りる算段を始めたのだった。

あれほどご執心のN360だったのに
一体何があったというのだ。
N360に乗ってわずか半年。
しかも前車のホンダZに至っては
たった3か月で降りてしまったではないか。
心移りにもほどがあるだろう。
お金も何もないのに一体お前は何を考えておるのだ。
馬耳東風。

何故なら当時筆者は
東京H市の欧州中古車販売店Wに展示されていた
ある車に魅入られていたからだ。
その車は1972年型フォルクスワーゲン・タイプ3だった。
年式こそN360と同世代だが、今まで乗ってきた
360cc軽自動車達とはまったく異なるタイプの車。

しかも、外車だ。
1987年9月、
意を決して、否、
機が熟して、
N360を送り出す決心をした。


しかしこのフォルクスワーゲン・タイプ3が
筆者車歴史上嘗てないほど最大の地獄の試練に
なろうとはこのときの筆者は想像もしなかったのである。



フォルクスワーゲン・タイプ3編 エピソード1へ 続く


車歴参考年表





2024/02/03

(No.2651): クルマ奇譚(ホンダZ 編)

 前回のあらすじ



360cc専門店Kモータース店頭に並んだ紺色のホンダZ(初代)。
後部窓が「水中めがね」みたいな形で個性的。
ホンダN360の面影も残っているフロントマスク。いいなー。
試しに店長に聞いてみた。
スバルR-2を下取りにしたらこのホンダZどんな塩梅でしょうかと。
あまり記憶はないがたぶん10万円台だったと思う。
試しに聞いたはずなのにあれよあれよという間にホンダZを契約。

実はこの少し前、友人TがKモータースでホンダN III360を購入したのだ。
ホンダN III360はホンダN360の後期型モデル。
ぼくもその潮流に乗らせてもらいますという意気込みだった。


1986年12月。
忘れもしないホンダZの納車日は、祖父の葬式の日だった。
葬儀は自宅で執り行われた。

筆者は父親にこう言った。
実はね僕はこれからやんごとなき事情があってね
ちょいと出掛けようと思ってるんだ、いやすぐに戻るよ。
何を言っているこれから葬式なのにどこに行くのだ?
うんそれを聞かれるととても言いにくいのだよ。
お前何考えているんだ爺さんの葬式だぞ。
うむ葬式だ。

滞りなくホンダZ納車完了。
お爺ちゃんは笑っていた。


さて、ホンダZ。グレードや年式など記憶はないが
水冷エンジンだったので後期型だと思う。

そしてこの車で一番印象に残っているのは酷い雨漏り。
雨漏り車とわかったのは購入後だった。
特に顕著なのが特徴的な後部窓からの雨漏り。
「水中めがね」とはよく言ったもので
マジで水の中じゃん、
と面白くもない昭和の冗談を発するほどのひどい雨漏りだった。
落語じゃないけど傘じゃなくて箒をさしてるくらいにダダ漏れ。
おそらくだいぶ前から雨漏りしていたようで
後部シートをめくったら錆の侵食で鉄板に穴が空いていた。

車内にはタオルを常備していて、
雨のたびに後部窓のまわりにタオルを敷き詰めていた。
それでも正月に初日の出を見に茨城県まで行ったり
なんだかんだでそこそこ遠出もした。


ところが梅の花が咲くか咲かぬかの頃合いに電気系が故障した。
最初はバッテリーが弱ってきたのかと思ったが
どうやらオルタネーター(発電機)の様子がおかしい。

セルの回転が変だ、と気づいた時には手遅れで
這々の体で入庫した近所の修理屋さんで完全に沈黙した。
電気系不調はオルタネーター交換だけでは済まぬらしく
併せて閉口していた雨漏りも診てもらったが
完治するには車体購入価格よりも高い見積もりで撃沈。


1987年2月末、
なんとかならんものかとKモータースへ問い合わせた。
ちょうど程度の良いホンダN360が入ったんですが
見てみますか?
なんというタイミングなのだろう。
しかも友人TはNIII360に乗っていたので、
このN360と2台で走ったらそれは素敵なことになるに違いないと
短絡的に、否、
総合的に、且つ、
坂を転がるように、否、
登り坂を駆け上がるように
筆者はハンコをつくのであった。

結局ホンダZは3ヶ月乗ったかどうか。


ホンダN360編へ 続く


車歴参考年表






2024/02/02

(No.2650): クルマ奇譚(スバルR-2 編)

 前回のあらすじ


1984年1月にスバルR-2を譲り受けた。
スバルR-2は2サイクル空冷2気筒360ccエンジンを
リアに積むスバル360の後継モデル。
譲り受けた車体は1970年式デラックスだった。
色は白。
走行距離は15万キロくらいだったと思うが
ワンオーナーで大事に乗られていたとあって
内外装はとても奇麗だった。
折り目一つない取扱説明書まで保存されていたのには驚いた。

多少クセのある車なので前オーナーの方から
「乗り方」をご教示頂いた。
主にチョークの使い方とギアチェンジの仕方。

スバルR-2は筆者の車歴の中でも上位に位置するほど
面白い車だった。
筆者の最初の車も360ccだったので返り咲いた格好で
この時期から1987年くらいまで360cc沼に
どっぷりと嵌ることになる。

ちなみに360ccの軽自動車のナンバープレートの色は
普通自動車と同じ白色なのだ。
ただしプレートの大きさが普通車よりも一回り小さい。
現在の660cc軽自動車のナンバー色は黄色だが、
大きな黄色いナンバーよりも小さい白いナンバーが
とても格好良く見えるから不思議だ。


そのスバルR-2に筆者が乗っていた期間は
大学3年の終わりから卒業後2年弱くらいまでの約3年間だった。
その間故障らしいこともあまりなかったが、
記憶にある事象を二つほど。


当時は友人Tとアヴァンギャルドな地方の温泉や鉱泉を巡る旅を
していたのでスバルR-2で関東甲信越や東北地方を走りまくった。

そういう地方の山などの長い下り坂ではほぼ毎回エンストした。
燃調が甘いのかスパークプラグにガソリンが被るのである。
しかし慣れたものでエンジン止まったら路肩に止め、
プラグを外して端子をライターで焼く。
乾いたらプラグを着けてエンジン掛ける。
といったようなことは日常茶飯事だった。





















実車の写真。


そして1986年、春。
友人Tと埼玉県O町付近の狭い県道の左カーブを走行中、
右の細い脇道から急に車が飛び出して来て衝突した。

急ブレーキを踏んだのでゴツンと当たった程度だったが
R-2のフロント右側が凹みサイドミラーが折れた。
幸いにもこちらも相手側も怪我はなかった。
警察の検分では、こちらも前方不注意ではあったものの
法定速度内で走っており、確認せず急に飛び出した
相手側の過失の方が大きいと判断された。
その日はミラーをガムテで止めて自走して帰った。
そんなことだったので車の修理代の大部分は
相手側から頂けることになった。
そんな事故に遭ったもののその後も特に問題なくR-2は相応に快調だった。


この少し前から筆者は
東京K市にある360cc専門店Kモータースに出入りするようになっていた。
店長さんとも少し親しくなり販売してる他の360ccに乗せてもらったり
マニアックな話題で盛り上がったりした。

1986年11月頃。
そんなある日、奇麗な紺色のホンダZがお店に展示されていた。
後部窓が「水中めがね」と呼ばれた360ccの小さな車だ。


ホンダZ編へ 続く


車歴参考年表






2024/02/01

(No.2649): クルマ奇譚(三菱ランサーセレステ 編)

 前回のあらすじ


1983年9月頃。
年式も走行距離も忘れてしまったが、
相応にヤレた三菱ランサーセレステを譲り受けた。
色はくすんだシルバーぽかったと記憶している。

そこそこ加速も良くスポーティな走りだったが、
譲り受けた当初からエンジンの調子は良くなかった。
おそらく吸気系と思われるがよくノッキングを起こし
不完全燃焼気味だった。

この頃筆者はHORMONEという変態テクノユニットで活動していた。
そのユニットで発表したカセットブックの冊子に
筆者のアー写としてこの車を背景に撮った写真が掲載されている。
















さて、あれは1983年12月頃だったと思う。
友人3人を乗せて秋川渓谷方面へ向けて五日市街道を
夜ドライブしていた時のこと。

快調に走行していたのに、何の前触れもなく
突如車内にクーラント液(冷却水)がブシャっと大噴出した。
運転席と助手席は激アツ熱湯の緑色クーラント液を浴びた。
筆者(運転手)と助手席の奴は阿鼻叫喚。
後部座席の二人は大爆笑。
靴下はおろかズボンやパンツまでびしょ濡れになった。
っていうか、熱ち!熱ち!状態。

水温計はみるみる上がり路肩へ緊急停止。
急いで調べてみると、
暖房用に車内へクーラント液を引き込んでいる
ゴムホースが見事に断裂していた。
応急処置として断裂箇所をカットし、
車内へ引き込んでいるホースを車内へ引き込ませず、
そのままエンジンルーム内に戻るようホースを繋ぎ変えた。
要するに暖房無しの車となった。


一旦落ち着いてから、
緑のクーラント液がシートやシート下に
水たまりとなっているので、
それらを外へ掻き出す。もう全員どろどろ。

クーラント液をしこたま排出させてしまったので
このまま走ればオーバーヒートしてしまう。
予備のクーラント液なんぞ積んでるはずもなく
この際水を直接ラジエーターに入れるしかない。
夜も遅くなってしまったが、どうしようもないので
五日市街道沿いの民家に突撃して水を貰うしかあるまい。

すると、なんという偶然か、同乗の友人の一人が
この少し先に俺の親戚の家があるから
そこで水を貰えばいいよと言うではないか。
そのお宅までオーバーヒートギリギリで走り
無事に水を補給できたのだった。


以上が、セレステ緑熱水ぶちかぶり事件である。

結局その冬は暖房のない車で過ごしたうえに
相変わらずエンジンの調子もよくなかった。
その後速度計も故障して針が動かなくなった。
(当然アナログメーターだよ)
速度計なので修理しないと公道を走れない。


そのまま年が明けた1984年の1月。
以前マークIIを譲ってくれたおじさんが、
同僚が長年乗っていたスバルR2を手放すんだけど興味ある?
ワンオーナーで奇麗だよ、と言ってきた。
すわ!興味ありありますと即返事。

スバルR2編へ 続く


車歴参考年表





2024/01/31

(No.2648): クルマ奇譚(トヨペットコロナマークII 編)

 前回のあらすじ


1983年6月。
母親の知人から廃車にするつもりだったという
トヨペットコロナマークIIを譲られる。
たぶん2代目マークIIだったと思う。

何年式か覚えていないが走行距離は10万キロを超えていた。
廃車予定だったとはいえそれでも10年落ちくらいだったのだろう。
4ドアセダンで車体色は白、4速フロアシフト、
後部屋根側が黒のレザーっぽいもので覆われていた。

今思えばなんと貴重な車だが、
二十歳の筆者にとってはダサいおぢさんカーだった。
そこでせめて車体を塗り替えようと思った。
赤と黒の車体補修用スプレー缶を数本買ってきて
何の下地処理もせずに車体に直接スプレーを吹いた。
ロシア・アヴァンギャルドに傾倒し始めていたので
赤黒のツートンにしようと思ったのだ。
数本のスプレー缶くらいで車体全体を塗装できるはずもなく
結果は子供の悪戯と思われるほどのムラのある酷い出来だった。

そんな悪魔のような車体色になったコロナマークIIを
譲り受けて僅か数か月後のこと。
友人の山梨県甲府市のアパートの敷地内で
左側前ドアが少し開いているのを知らずにバックして
石に引っ掛けてしまいドアが落ちた。
このままじゃ東京に帰れないので
ドアをはめて落ちないようにガムテープで貼った。

その甲府からの帰り道、
今度は突然ギアが1速にしか入らなくなった。
甲州街道を1速でノロノロと他車に煽られながら走った。
ようやく地元に戻ってきたときは夜中だったか明け方だったか。
あと少しで自宅だという最後の最後に警察の検問で止められた。

1速しか入らないうえにドアにガムテ、
車体は赤黒ムラムラツートン、
運転者は目の下クマ持ちのテクノカット。
検問で止められない方がおかしい。


ドア修理、トランスミッション修理でウン十万円の見積もりを
潔く投げ捨て、そのまま滞りなく廃車。
何の偶然かそのタイミングで母親の別の友人が
クルマを乗り換えるんだけどエフオピ君いる?
と言ってきたのだ。

確かあのおばさんは日産フェアレディZに乗っていたと思う。
え?まじで?フェアレディZもらえるのか!
と興奮したが果たしてその車は三菱のランサーセレステだった。

三菱ランサーセレステ編へ 続く


車歴参考年表

2024/01/04

(No.2647): 2 0 2 4 0 1 0 4 6 1

好き
小津安二郎監督「お早う」「秋刀魚の味」「秋日和」。
つげ義春「ゲンセンカン主人」「李さん一家」「ヨシボーの犯罪」。
沼尻軽便鉄道、草軽軽便鉄道。鉄道模型もナロー。
沈香白檀伽羅お香全般。
水戸納豆、永福町大勝軒ラーメン、パスタ全般、サラダ全般、次点ライスカレー(昭和)。
マニュアルトランスミッション、2気筒、1000cc以下。
細野晴臣「ラップ現象」、高橋幸宏「カモフラージュ」、mouse on mars「sui shop」。
コーヒー、お茶、水。
サイン波のシンセベース。


嫌い
酒、煙草、肉の脂、パクチー。


2024年も宜しくお願い申しあげ奉り候みたいなやつ。