■
年の瀬。午後の日差しは柔らかだが道行く人々は襟を立て足早である。向かいの辻から亀住町行きの東京市電がガタコトと揺れて路地に消えていった。その市電の通る表通りの辻に木造二階家がある。階下は道具屋になっており、仕入先のわからぬ怪しげな物品やどこかで拾ってきたのか万国の奇物を並べて商っている。道具屋の店主は晃一郎を気に入ったのか格安で二階の六畳を貸している。
■
年の瀬。午後の日差しは柔らかだが道行く人々は襟を立て足早である。向かいの辻から亀住町行きの東京市電がガタコトと揺れて路地に消えていった。聞くところによると、昨今は筆者のようにアマチュア無線にカムバックする人が多いとのこと。
筆者が高校生の時に電話級(今の4級)を取ってアマチュア無線をやり始めたのが1979年とか1980年頃。統計によると1980年代がアマチュア無線人口が一番多かったらしい。その後、携帯電話やインターネットの普及でだんだんと減り続けた。
1980年代に10代だった人がその後働き出して忙しくなり、または飽きてしまったりしてアマチュア無線をやめてしまったが、30〜40年後ここ最近またやり始めたという事例がとても多い。筆者もその中の一人。
カムバックの理由。仕事がひと段落したり、リタイヤする年代だったり、子供が成人したり、またはコロナ禍のステイホームから昔の趣味が再燃という方もいるだろう。
ちなみに筆者の場合はそのどれにも当てはまらない。
切っ掛けは、大掃除中、段ボール箱から昔の無線機が出て来て、おおお!今こそこれだよこれ!と1.3秒くらいで再燃した。人生って不思議。
しかも、一旦火がついたら誰にも止められない。
だから今年の8月中旬、大雨の中、3級アマチュア無線・無線従事者国家試験を受け、40年ぶりに資格のステップアップを果たしたりもした。自分でも驚くべき行動力だ。
受験勉強なんぞそれこそ数十年ぶりだった。
筆者はなんだかんだで1990年くらいまでアマチュア無線は細々とやっていたので、約30年ぶりの復活ということになる。
実際、最初は浦島太郎だった。CQ誌(音楽業界でいうサンレコにあたる雑誌)を購読し始めて最近の状況やトレンドを貪り読む。ネットをググりまくる。
FT8という通信方式が大人気だという。
FT8とは無線設備とPCを使ったデジタル通信。特徴は弱小な設備でも、DX(遠い局、主に海外)との通信が出来ちゃうという。
無線で話して相手と通信する場合、もちろん受信した音声を自分の耳で聞いているわけだが、遠い局の弱い信号はノイズの中に埋もれてしまって聞き取れないことが多い。
FT8は人間が耳で聞く代わりにソフトウエアで受信音をデコードするという仕組みである。
つまり、音声(人の話声)ではなくデジタル信号を送り合い、無線機で受信した音声をソフトウエアで解析(デコード)して通信する。
だから、ノイズに埋もれた信号でもデコードさえできれば通信が可能となるという理屈で、弱小な設備でもDX局と交信ができるのだ。
どれどれと、筆者も環境を構築し、さっそくFT8なるものをやってみた。
(ちなみに、FT8をやる場合、総務省総合通信局へ届出が必要である)
18MHzで午後から夕方まで、ヨーロッパが入感。イタリア、ブルガリア、ハンガリー、フィンランドなどなど簡単にQSO(交信)できた。9000km以上も離れた場所へこんな貧弱なアンテナから電波が飛んでってるのか!ちょっと感動した。
何より、話さなくて良いので英語ができなくても問題ない。
いや問題だ。あまりにも楽しくてどんどん交信してしまう。ヨーロッパ諸国をはじめ南米、北米、オセアニア、アジア、ロシア方面など、電離層のコンディションにもよるのだが、普通にワッチしてても聞こえないのにFT8だと交信できてしまう。
しかも、QRZ.comサイトから今交信した人の住まいやらシャックやらが簡単に見れてしまう世界線。最高にパンクだ。FT8の誘惑はまだまだ続きそうだ。
この杯の道シリーズが最後に書き込まれたのは2017年9月というのだから4年も前のことになる。どうりで、車検も2回目が到来するわけだ。
筆者のオートバイ Triumph StreetCupも2回目の車検を迎える時節になった。
嘗て、仕事場へ往復走行距離50Km、ほぼ毎日、駆っていたことを思うと、ここ数年の走行距離は嘗ての一カ月にも満たない始末。長距離ツーも最近とんとご無沙汰だし。
そんなことだから、久々にエンジンを掛けようとしたら、ンクンク と鳴ったきり動かなくなってしまった。バッテリーあがり。
幸い、四輪(フィアットパンダ)からのバッテリージャンプが可能なのでそれでエンジンを掛けて、バッテリー充電を兼ねて少し走る。
久々にバイクで走ると、そうそう、これこれ、これだよー という感慨になる。ニーグリップして旋回する颯爽感。
先月、tairaさんと久しぶりに都内オートバイ並走楽器屋ツーに行った時もバッテリー充電しつつ都合100Kmほど走った。
ところで前々から思っていたTriumph StreetCupの直したいところ。
どう考えても、このライポジ(乗車姿勢)が解せない。
つまり、ほぼセパハンに近いハンドル位置の設計で、そもそもカフェレーサーモドキを提唱するのであれば、ステップの位置はもう少し後ろでよかったのではないか。
だって、乗りにくいんですよぉ。
なんちゅうの、前傾姿勢なのに、足だけ真下へ下ろすんだよ。やっぱり、この場合、足は所謂バックステップで丁度よい塩梅になるはず。
本物のカフェレーサーであるところのTriumph Thruxtonを運転したことあるけど、やっぱり、あれ。あのポジションが正統で正解。
ThruxtonはStreetCupよりもタンクが長いので、一概には言えないけど、せめてバックステップになっていれば、概ね幸せになれると思う。
概ねというのは、たぶんあれでバックステップになったら、日本人の足の短さ故、完璧に膝が熱塊のエンジンフィンに接触する。
火傷上等。
うそ、熱いの嫌だ。でも、姿勢はきっとバッチリなはず。
と鼻の穴を広げながら息巻いていたら、世界で唯一と謳われているWM製のStreetCup用バックステップKITなるものがあるのを知る。
先ずは年末ジャンボ宝くじを買うのが決まった。
0日目 前夜祭なし。無歓声の中の花火大会。特別感。
1日目
ホワイトステージ 砂原さんと今井さんのMETAFIVE。しか印象に残ってないほどの圧巻ステージ。リベンジ感。いやむしろ次回リベンジなのか。
2日目
レッドマーキー THE SPELLBOUND。轟音エレクトロニック。
3日目
夜。雨の中ホワイトステージの先にあるアバロンで永福町大勝軒っぽいラーメンを食べていると、鎮ZさんからLine。
「いま、ホワイトステージの裏にいます」
って言われても、そこ行けんし。
「平沢進+会人」終演後、鎮Zさんへお疲れ様でしたとLineしたものの、実は僕、平沢さんの途中でグリーンステージの電気グルーヴに行っちゃったんだよとは言えず。
電グル後、レッドマーキーのまりん砂原さんへ。24時前には終わるという健全なフジロックだった。
様々な情勢の中、賛否に塗られて行われたが、厳格な導線、お酒類持ち込み禁止飲酒禁止、消毒・検査・検温などなど徹底的に統制管理して実施されていた。
客数制限や時短はむしろとても快適だった。特に酔っ払いが一人もいないのがよかった。そして筆者が観たライブでは無歓声で、拍手のみだった。みんなちゃんと守っていた印象。
昨今Spotifyなどのサブスクで知らなかった数多のエレクトロニック系音楽を聴くことができる。
それらを聴いて改めて想うことは、”音色(帯域)”及び音響技術が楽曲制作に重要な要素を加えているという事実である。
特に音数の少ない楽曲は顕著だ。例えばリズム系とベースのみの曲での、各楽器が聴感上の領域一杯で鳴る存在感の完成度。
けっして、音圧を強調したかまぼこ型波形ではなく、極めてダイナミックスのある波形。(きっとそうに違いない)
そういう曲は、キック、スネア、ベース、グルーヴにつながるハットや小粒な短いディケイシンセ音シーケンスのみでも、十分聴きごたえを感じる。
小さな音も帯域に埋もれずにはっきりとそこに存在し正しく曲の構成の一部となっていることを確認できる。そして、ふくよかな低域に支えられた自然な高域も。
包み込まれる立体感。
各音色が必然と鳴っている確かさ。
誤解を恐れずに言うなら、それほどよいフレーズでなくても、音色(帯域)と音響処理で格好良く聴こえるから不思議だ。
その理由はおそらくエレクトロニック音楽は、演奏や旋律とは別に”音色(帯域)”も一つの表現方法であるからだろうと考えている。従ってこの魔法は概ねエレクトロニック、テクノといった楽曲にこそ真価を発揮するのかもしれない。
筆者は前々からこの魔法の仕組みにとても興味を持っている。
楽曲制作において音を重ねていく場合、その音にのみ注力せず、楽曲全体としてその音の必然を感じとることが重要なのかと思う。音数に限らずこれがこの魔法の肝ではないかと最近得心した。
(一方で不要な音を詰め込む手法で表現することも支持する。敢えて汚すことも重要だし面白い)
難しいのは、制作中は試行錯誤しながら進行するため、音色=帯域のぶつかり具合に無頓着になってしまうことだ。
ベッドルームクリエイターにおいて、せっかく作った自画自賛パートをどれだけ客観視できるか、愛着あるフレーズや時間を掛けて作った音色を目的のためなら容赦なくダメ出しディレクションができるか、だろう。
その辺りをほっぽらかしにして、最後はEQやマキシマイザーで茶を濁すのは文字通り濁すことになると肝に銘じてチョコモナカアイスジャンボを頬張りたい。頬張っていきたい。
<現象>
・Ableton Live11 + UA Apollo Twin MkII にて運用中、突然Apolloが認識しなくなる。いわゆるドライバソフトが外れる。
MacBookProのOSをBigSurに変えたときは何でもなかった。
現象がではじめたのは3、4カ月前くらいからか。BigSurに変えたのはもう少し前だった気がする。
BigSurとの因果関係は「エビデンス」がないので不明だが
そもそもBigSurにしなければならない状況になったのだ。
すなわち
iPhoneをMBPにバックアップしようとしたら、OSが古いので新しくしないとバックアップできません的なことになったため、AbletonLiveとUA Apollo TwinがBigSurに対応するのを待って、MBPをBigSurにアップデートしたのだった。
Apollo Twin周りとしてUADソフトウエアもファームウエアもBigSur対応にアップデート完了した。
わたくしに何か落ち度がありましたでしょうか。
<ドライバが外れる時の状況>
・何も触らずにしばらく放置している時
・Ableton Live 再生中!
・Apollo Twinを物理的に少し動かした時
上記の状況で必ずしもドライバが外れるわけではなく
数時間放置しても何も起きない時もあるし、
接続中のApollo Twinを物理的に動かしても問題ないことの方が多い。
<対応>
・Apollo Twinを再起動
・MBPも併せて再起動(その場合先にApollo Twinを電源ON)
上記何れの場合も、復旧するときもあるし、復旧しないときもある。
復旧しなくて「ったくなんだよーざけんなよー」などと呪詛し
しばらく放置したあと起動すると何もごともなかったように認識する場合もある。
ここまでの状況証拠から、意外にThunderboltケーブルが劣化したのやも。
と思ったりもするが、、、
Thunderboltケーブルの接触的なものなら逆に簡単な話なのだが、
Thunderbolt2->3変換アダプタやUSB-C形状ケーブルはすべてAppleの純正部品(それなりに高価)を使っている。
Appleの純正部品(それなりに高価)を使っている。(2回目)
え?そんな2年?くらいしか使ってないのにもう接触不良とかになっちゃうわけ?
費用対効果バカ悪過ぎじゃねとか思いつつ、それで直るならとも思ったり。
しているわけなのです。いまここ
(BGMは 北山 修、 加藤和彦 「あの素晴らしい愛をもう一度」)
過日、18年ぶりに胃カメラを受診した。
(15年ぶりかと思ったらもっと前だった。15も18も変わらんだろうとは思ったが3年という長さにはいろいろあるだろう、中学校も高校も3年間だし。しかし中学ってたった3年なのに、振り返ると人生の中でもけっこうな大きな割合に感じている、思いが強い時期なんだろうなと思うよね、マジで、、、えーっと何の話だっけ。)
そうそう胃カメラ。最近は胃の内視鏡というらしい。昔は文字通り太(ぶ)っとい「カメラ」を飲んでいたのでそう呼ばれた。
その18年前の胃カメラは、筆者人生でのほぼ最高ランクのトラウマになっていた。
即ち、黒光する極太コードをぐいぐいのどに突っ込まれて、嘔吐反応しまくりで過呼吸になり白目をむき、腰が抜けた思ひ出。
あの悪夢を、否、夢ではなく現実世界における悪魔の苦痛を再び体験することになるのかと、顔に縦線を施しつつ、予約のための初診に臨んだ。
比較的楽と言われる鼻からやる胃カメラもある病院だったので、お医者に鼻からのやつでどうかひとつとお願いすると
「経口で苦しかった方は鼻からでも苦しいですよ」という詔を発せられ脳天に一撃を加えられた。
てっきり鼻からのやつで楽にできるのかなと思っていたので「え”?なんですと」と、目を白黒させていると
「うちではなるべく患者さんに負担を掛けないよう鎮静剤を使った経口内視鏡をお勧めしています。ウトウトしている間に検査するのであまり苦痛はありませんよ」というではないか。
うむ。確かにその病院のサイトには鎮静剤を使って口から胃カメラのメニューもあったのは知っている。
しかしね君、ぜんぜん眠くもないのに急にそんなウトウトするなんて、ありえんでしょう、普通、ねえ君、実際居眠り運転とかもぜんぜんしたことないし(当たり前だけど) っていうか、やろうと思ってもできない体質なのに、そんなウトウトなんてできんよ君。
鼻でも口でもどちらでもよいですよ、お好きな方でと案内され、”なぁまくさらば たたきゃていびゃく さらばもっけいびゃく”と不動明王真言を唱えながら、結局、鎮静剤+経口内視鏡を選択した。
検査当日。(前の晩いや、初診日からずっと 著しいド緊張状態を継続)
朝8:30に病院到着。
何が恐ろしいって、胃カメラの苦痛もさることながら、
鎮静剤とやらで意識がなくなるっていうか、
眠くなる?っていうか
そんな、わたくしの今、このばっちり目が冴えている、
緊張のあまり、眠くなど1ミリもない、
このわたくしが、あと30分もしたら眠くなるのか、
という恐怖で胸が張り裂けそうになって、
待合で血圧を測り、
順調に高血圧の結果シートが出力されるのを
わたくしは冴えわたった眼で見つめていたのです。
その病院は内視鏡の専門医なので、リカバリールームと呼ばれる検査後にベッドで休憩できる部屋や、検査前の各種前処置する部屋などがある。
先ずは、前処置する部屋へ入る。大き目のふかふかソファー椅子に座って、胃を綺麗にする液体薬を紙コップで飲む。
すぐに、検査室へ呼ばれて歩いて行く。内視鏡の装置がある部屋のストレッチャーに靴を脱いで自分で仰向けに寝る。
看護師さんが右腕に点滴を挿す。
「まだ眠くなりませんよー。これは水分補給ですー」
そ、そうか。まだ眠くならんのですねと、ひとりごちる。
そこへお医者さんが登場。「宜しくお願いしますー、ではやっていきますね」
よ、よ、よ、よろしくお願いしますと、吃音も順調だ。
「口を開けてください。喉の麻酔ですー」
といってスプレーを口の奥へシューと吹く。
「ごくんと飲み込んでください。苦いですよー。飲み込むとこれ以降唾が呑み込めなくなります」
ごくんと飲み込む。うむ苦い。お、すぐに舌の奥から麻酔が効いてきた。
そしたら、「はいもう一回」といってさらに麻酔スプレーを追加で吹く。
横を向いてくださいといわれ、自分で体を左側を下にして横向きに寝る。
「足を交差させてー、鎮静剤に変えますね」
点滴の途中の管を抜いて注射器を挿しているのがチラッと見えた。あれが鎮静剤かしら。
看護師さんにマウスピーズをつけられつつ、なるほど、唾が呑み込めない。
「唾は呑み込むとむせちゃうので、だらだら出してください」
御意。
顔が横向きなので、マウスピースの口からだらだらと唾液を出す。うふふふ。
看護師さんが「目線はあのあたりに向けていてください」と指をさされた方向へ目を向ける。
ああ、こんなにのどの奥が麻酔で感じないから、このまま意識あっても苦しくないかもしれないなーと思った。
??気付くと、別の部屋で仰向けに寝てる。
各ベッドがカーテンで仕切られている。リカバリールームだろう。右腕の点滴はまだしているが、水分補給のパックのようだ。
すわ!えッ!??? 終わったのか?
胃カメラ おわったのか? まったく記憶がない!マジか!すげーな鎮静剤。
記憶がないので胃カメラ受けたという実感がまったくない。胃や食道もまったく違和感は残っていない。ただ口の左側あたりに涎がかぴかぴになってたくらい。
すげーな鎮静剤。
それにしても、眠いというか ぼーっとしている。でも眠いとは少し違うような。
こうして目を閉じて寝てるのが、あー気持ちいい。
だんだんと頭がはっきりしてきた、ところに看護師さんが表れて、点滴を外してくれて終了。
ベッドから起き上がるとき、フラッとしたけど、頭はすっきりしていた。
その後、普通の待合で待ってから、検査結果を聞く。すべて異常なし。
時計をみたら10:30頃だった。90分くらい時間が飛んでいる。
帰宅してからお昼を食べたら、急激に眠くなって2時間ほど眠ってしまった。
すげーな鎮静剤。
ちぎっては投げ、投げてはちぎる段ボール。いざ梱包の段に透明テープの端を見失い、先端出すのに20分。1分1秒を争うわけでもないが、作業を阻まれてぐぎーと唸る。ひとしきり出荷業務。メルカリ。
その軍資金を充てに、計画は実行されるはずだった。
しかしそれは無計画として実行された。
すなわち計画の計画としての本懐は成さず、計画としての計画は実行されず、まったくの無計画という状態において、それは実行された。
「あれだよね、計画としてはさ軍資金貯まったら満を持して、これをこうしてカートにポイって入れるでしょ。うんうん」
「そんでさ、精算へってボタンを、こうしてポチっとするじゃない。そうそう」
「最後にこの実行ボタンっつうやつをさ、クリってしたら、買えるんだよね。この感じいい絵だよね」
クリック
「あ」
「あ」「満は持していなかったね」
-----------------------
偶然性による音の連続体がいい。思いもよらぬ音の出現に心踊る。次の展開は作者の思いもよらない方向へと広がる。
(よくわかっていない)
それで果たして作者と言えるのかと罵られる期待も醸し出しつつ、こうして音楽は創られてゆく過程を表現したい。
(よくわかっていない)
その場で創り出す音と音の隙間を作ったり埋めたりする作業と感性。
(とか言いつつよくわかっていない)
2021/06/26 土 バルタザールの連弾
出演:dewey みどりこいとうduo
会場:大久保ひかりのうま(open17:00/ start17:30)
配信:17:30〜
会場限定15名 要ご予約:¥3000+1d
ご予約、配信、投げ銭はこち
https://hikarinouma.blogspot.com/2020/06/blog-post.html?m=1
先日、小・中学の同級生だった旧友Nと秋葉原を訪なった。
秋葉原は、近年はライブやら楽器機材やら打ち合わせやらで訪れることもあったが、いわゆる電気モノを物色するために訪れるのは久しぶりだった。
突如急速なる嗜好復活における常套な行いではある。即ち、くだんのアマチュア無線ベクトルの復活だ。
旧友Nもアマチュア無線の免許を持っており、筆者と同じ高校生の時40年ほど前に取得している。しかし、示し合わせて免許を取ったわけではなく、たまたま偶然だった。
中学を卒業してからしばらく疎遠だったが、高校2年の時、筆者自宅屋根のアンテナを見つけ訪ねてきて、「おまえも無線やってたのー?!」とお互いそれを切っ掛けにまた遊ぶようになった。
ところで旧友Nは、筆者のあまたエポックを成すポイントにおいて、必ず登場する男なのだ。
実際、この時から、何か新しいことを始める時には、なぜか旧友Nがそこにいるのだった。
一番の貢献は、テクノだ。
実は筆者が音楽、特にテクノに傾倒し、こっち方面に来る切っ掛けを作ったのも彼だった。
それは忘れもしない1981年の6月。筆者も彼も大学1年生のとき、旧友Nが筆者の家に遊びに来て「スネークマンショー・急いで口で吸え」を録音したカセットテープを聴かせてくれた。
その時に聴いた「YMO/磁世紀 開け心」に突如心が動いた。
そもそもそれが最初だった。
以降は、クルマ、エアガン・サバイバルゲーム、ホーロー看板などの潮流、そしてここには書けないあれとかこれも含めて、改めて振り返るとそこには必ず旧友Nが存在していた。
閑話休題。
そういう目的で訪れた秋葉原だが、無線屋さんがなんと少なくなってしまったことか。
厳密に無線関連パーツということでいえば、ラジオ会館等の小さな小売店でもあるにはあったが、アマチュア無線機やアンテナ関連等を置いている店は4軒だけだった。(本当はもう少しあるのかもしれないが。。見つけられず)
30~40年前の秋葉原はアマチュア無線を扱っているお店がたくさんあったのに。目をつぶって歩いてぶつかったらだいたい無線の店。
アマチュア無線の近況を調べてみると、人口がだいぶ減ったとのこと。
たしかに商品の価格をみると昔に比べて単価が高い気がする。購入者分母が減ったことによるものか。
そんなことを思いつつも電子パーツ屋さんを巡りながら、dewey やdewey deltaで使える飛び道具の物色も忘れなかった。
アラカンのおっさん二名にミニスカメイド服お姉さんが「おにいさん、おにいさん、いまお時間ありますかぁ~」と声を掛けられること百と八回。
中学の頃(1977年頃)、筆者は鉄道模型が好きで、その辺りから電気工作にも興味が移った。その関係で「ラジオの製作」誌などを定期購読していた。
最初に作った電気工作は、AC100VからDC13.8Vを出力する安定化電源だった。設計は雑誌に載っているので僕たちはそれを見ながら秋葉原で部品を買ってきて自作するのだ。
お金も工具もないのでケースは買えず、かまぼこの板にトランスや端子の付いたベーク版を取り付けて配線した。
何故13.8Vかというと、その時持っていたソニーのトランシーバーの電源として使いたかったからだ。
無線機の電源は概ねこの規格だった。電気工作と共に興味があったのが無線だった。しかし中学の時はまだ免許を持っていなかったのでCB無線(合法のやつ)をやっていた。
高校では鉄研(鉄道研究部)に入った。
鉄研の部室の隣が無線部の部室だった。無線部は国家資格のいるアマチュア無線の活動をするクラブ。
同じクラスのI君が無線部だったので、彼に教わったり無線部の部室で先輩のQSO(交信)風景を見せてもらってるうちに魅了され火が付き、高1の秋に国家試験を受けてアマチュア無線の免許を取得した。
無線部の部長になったI君に、鉄研をやめて無線部に来なよと何度も誘われたが、筆者は鉄研の副部長だったので断っていた。が、実は無線部に入りたかった。
I君とは高校卒業するまで、毎週のように秋葉原へ出かけてはアマチュア無線や電子部品の海を泳ぎまわっていた。
この頃が一番アマチュア無線にハマっていた時期だっただろう。
その後大学卒業後数年間はHF~50MHz(専門用語ですみません。ググってください)を中心に運用していた。
別の章で書いているが、筆者は大学1年の初夏にYMOやKraftWerkと出会って突如テクノ音楽に目覚める。
シンセサイザーや録音機材が欲しくてアルバイトをしていたが、実はこのとき、所持していたHFの無線機を近所の質屋に持って行ったのだ。金に換えるために。
しかし筆者が未成年だったこともあり断られた。(結局は売ることができたがそれはまた別な話し)
その後、1988年頃乗っていたローバーミニでは50MHzのSSBとAMでモービル運用をしていたこともあった。QSLカードはそのミニの写真だった。
しかし、ミニを降りたのを境に急速にアマチュア無線への興味が薄れる。
それから30年経ったここ最近、アマチュア無線への興味がじわじわ復活してきた。
免許を取ってから既に40年、近況がまったくわからないので情報収集しつつある。
情報収集してて一番驚いたのは「旧スプリアス規格」の無線機が2022年11月で使えなくなるということ(2021年3月時点ではこの期日も延長されたとのことだが。。)
所持しているのは古い無線機ばかりなので、マジか!となった。
そして無線局免許状を見たら備考にそのことが書いてあった。ぜんぜん気付かなかった。
紆余曲折、調べたら筆者が所有している無線機は確認保障できる機種だったのでとりあえず大丈夫そうというところまでわかった。
ちなみに、無線従事者免許は生涯免許なので更新は不要だが、無線局免許は数年置きに更新しなければ失効してしまう。失効するとコールサイン(世界に一つ、自分の無線設備に与えられた呼び出し符号)がなくなってしまう。
40年前のコールサインは復活したときに使い続けたいと思っているので、無線局免許は忘れずに更新している。
電網辺境荒地の辺に存するこのブログに何度となく記した覚えがあるが、今まさに改めてここへ殴り書く筆者の食の嗜好。誰一人として望まない噺。
立ち去ってゆく読者の背中を見送りながら。
(嫌)
お酒。
下戸にして身体的にアルコール類は認めない。毒。DNA的に無理。ぐいぐい来る酔っ払いも苦手。
関連して、お酒のつまみ系大人の食べ物は苦手。
うに、いくら、生ガキ、白子、カニ。
昔、カニで大当たりして大変な目に遭って以来食べられなくなった。
パクチー。
食べ物に非ず。誤って口腔内に入った刹那すべてが台無しになる味。
野菜類は好物だがパクチーだけは論外。
脂が多い肉と内臓系。
肉の場合なるべく脂の少ない赤身を選んでしまう。ホルモンは呑み込めず。
生卵。
旅館の朝食じゃないと食べられない。(特にしろみ)
(好)
納豆。
3パック98円のおかめ納豆で十分。毎日食べる。納豆は欠かせないアイテム。
穀物系。炭水化物系絡み。
白米、五穀米、各種パスタも好き。
基本的にお子様メニューに好物が多い。
ラーメン、カレーライス、スパゲッティ(ナポリタンかミートソース)昭和の喫茶店ランチで。
カレーについては、本場インドカレーなどというナンで食べたりするものではなく、
りんごとはちみつの入ったハウスバーモントカレーの二日目、昭和の家カレーが好物。
具は奇をてらわず、じゃがいも、にんじん、をごろごろと。たまねぎはみじん切りで溶かしてもいいけど大きめでも可。肉は豚肉コマで申し訳ない程度に少しだけにしたい。
ラーメンは全般OK。体調にもよるがこってり系でも行けるときがある。
ラーメンは永福町大勝軒が優勝。
野菜全般。
生でも茹ででも。サラダをわしゃわしゃ食うのがいい。
毎日食べる。野菜ジュースも好き。
発酵食品全般。
チーズ、ヨーグルト、漬物(ぬかみそ)、梅干し。
乳酸菌系は毎日何某か食べる。納豆も発酵食品だけど、高待遇特別扱い。
筆者は以前、制作環境に常時、楽器や機材がスタンバっているのは好きではないと書いたことがある。
何故(なにゆえ)か。即ち、機材や楽器を出しっぱなしにしておくと、埃が溜まってしまうからだ。ぷふ。
すなわちって顔か。すり鉢みたいな顔して。という詰まらない突っ込みもされながら、そんな些細なことなのかと思われる諸兄の方々。
確かに、シンセや機材をずらっと並べればかっこいいし、モチベーションは上がるだろう。埃さえ溜まらなければ。埃。
ああ、あいつらときたら、ノブの、フェーダーの、鍵盤の、ボタンの、枚挙に暇がなく、重力に則って、降り積もる様。嗚呼ダセー。
え、ちょ待っ。。そんなのマメに掃除をすればいいだけじゃん。
掃除?!うむ。さうだ。掃除だ。さうしよう。さうあるべきだ。掃除をしようぞ。
という自己暗示を受けて昨年8月に筆者の音楽制作環境 studio D.E.L を大々的に断捨離+リフォーム改造したうえで、リフォーム後のぴかぴか状態を維持すべく試みが始まった。
実は改造の大きな目的のひとつとして、スタジオ用のモニタースピーカーの設置があった。
それまではヘッドフォン(SONY MDR-CD900ST)のみのモニター環境だった。
肝心のモニタースピーカーはドイツのADAM AUDIO T7V ニアフィールドモニターを選択。
T7Vは低域が39Hzからなのでモニターする位置によっては十分な低域の確認ができる。新開発とされる独自のツイーターが若干ハイ強めに感じられるが帯域は裏面にて調整ができる。このモニタースピーカーは小音量でもしっかりと定位の確認ができるのも良い。
運用としては、細かいところは900STヘッドフォン、全体の音像や各帯域の出音などはT7Vを使用する。
窓には吸音材が貼れないので、カーテンを全て防音用のものに換えた。壁の吸音材と防音用カーテンの影響でかなりデッドな部屋鳴りになった。
音漏れについて。
スタジオでかなり大きな音を出しても部屋の外では遠くで鳴っていると感じるくらい。特に中高域の音漏れ具合はほぼ問題なし。ただし、キックやベースなどの低域は少し感じる。低い周波数は物質を伝搬し易いから難問。課題。
スタジオのリフォームは完成した。
この整った状態を日々の音楽制作環境として維持させてゆくために、筆者は決断した。
基本は掃除ぞ。その運用にあたって、揺るぎない掟を挙げる。
燃ゆるゴミの日(週二回)の朝、スタジオの隅々をガッツリと掃除するという決断だ。日本語の文法など捨ててしまえくらいの。
既に実施9か月目継続中。いまのところ埃一つない。
週2回のスタジオの掃除、がんばってます。
1行で済む話だ。
※この文章は2098年イギリス プリマス地方のタマートン湖の湖底から発見されたポリカーボネイト板に原始的なポラリ語の一種で書かれていた文字を現代語に訳したものです
この写真は第1期dewey。もう13年前。代々木のノア・スタジオで練習後にロビーで撮ったもの。
代々木のノアがまだ改装前の狭い建物のとき。
第1期deweyでは筆者はドラム担当だった。たしかこのとき、円形脱毛症があったのでキャップをいつもかぶっていた。
そもそもdeweyは電子音楽と生ドラムを混ぜこぜする音楽をやりたいために始めたのだ。
しかし筆者のへたっぴーなドラムだと、せっかくのtairaさん楽曲の良さをスポイルてしまう展開となり、そもそも自分が思い描く音像に遠く及ばないことがわかり、この数年後筆者はスティックを折ったのだった。
今にして思えば、筆者の稚拙極まりないドラミングとも呼べないあんな不様な在り様をよく人前に晒していたと思う。
結局ドラムは9年少しやっただけである。
最初は2002年頃、仕事関係の仲間で作ったブルース・ソウル系バンドにドラムで加入。ドラムは独学でやっていたが、途中からWEB通信講座でドラムの基礎を学ぶ。
ブルース・ソウル系バンド内での会話ではテクノやらエレクトロニックやらの音楽は100パー無関心。あたりまえだけど。
もっぱら60年代70年代の洋楽カバーやGSのカバーを中心に活動していた。
バンドメンバーの話す内容がほとんどわからず、唯一JBだけは知っていた。
バンドメンバ「ボ・ディドリーのヘイ・ボ・ディドリーやろうよー」
エフオピ 「????何語だ?」
しかしこのバンド、筆者のドラムでよくライブできたよなと思う。特にギターの人はChar氏と共演したこともある名うてミュージシャン(当時)だし、やりにくかっただろうと思う。
ギター系バンドでのドラムは筆者の本位ではなく、やはりギャニュギャニュとした電子音塊の中での生ドラムという音像を求めるため、deweyを結成してドラムをやったのである。
しかし、現実はそうは問屋が卸さず冒頭へ戻る。
考えてみれば、筆者がdewey結成当時標榜していた「電子音楽と生ドラムを混ぜこぜする音楽」がdewey deltaとなって結実しているのだ。
ハッチャキさんの卓越したドラミングとtairaさんや筆者の電子音塊とが混ざった音像は、正しく筆者が当時思い描いていた光景である。
上の写真を見て、そんなことを思い出した噺。
人生とは面白いものね。
「鰻の幇間」という落語がある。
超簡単なあらすじはこうだ。
幇間(太鼓持ち)が往来でお客を漁っていたら、浴衣掛けの若旦那と思しき男が声を掛けてきた。
どこかで会ったことがあるのだが思い出せない。思い出せないが、取り巻いてうなぎ屋でご馳走になることに。
この男、実は詐欺師であった。
幇間は結局この男に騙されてうなぎ屋の勘定はもとより、数人分のお土産を持ち帰られた上に自分が履いてきた下駄まで盗まれてしまうという噺。
この噺に出てくるうなぎ屋はひどく汚く且つぞんざいな店で、店自体も傾いているし客間もぼろぼろ、そして肝心のうなぎは3年噛んでもとろっとこないほどの硬さという不味さ。
お勘定をもらいにきたお店の賄いお姉さんにいろいろ文句をぶつける幇間。
「このうなぎどこで獲ったんだい、天井裏かなんかで獲ったんじゃねぇか」
筆者は鰻が好物だ。否、正しくは、「ある鰻屋のうな重」が好物なのである。
予てから鰻好きを公言して憚らない筆者において、西は浜名湖、東は成田参道までいわゆる名物と言われるような場所へ赴き鰻を食べ歩いてきたが、
結局”その鰻屋”を超える鰻にはまだお目にかかれていない。
どのお店もけっして不味いわけではなく、美味しいのは間違いがない。だが、”その鰻屋”と比べるとそれら名店ですら霞んでしまうほどだ。
大げさな物言いかもしれないが、”その鰻屋”の鰻ときたら、うなぎであって鰻でない、まったく別の食べ物であるという印象だ。
従来のいわゆるうな重の概念が変わる。
即ち、その鰻は歯が不要なほどに、溶ける!
ほくほく。
50年以上継ぎ足された絶品タレと焼き加減、鰻とご飯とのバランスが絶妙。完璧なまでの拵え。
とにかくほくほくと溶ける。
そして、量が多い。うな重上で概ね3枚乗ってる。たまに卵焼きも入っていたりする。成人男性でも完食すると腹ぱんぱんになる。
肝吸いも美味い。
自家製の香の物も美味い。
しかも、驚くことにほかの鰻屋さんよりもだいぶ安価である。
実は”その鰻屋”は築地の某有名老舗うなぎ店の暖簾分け店である。
老齢のおやじさんが若いころ修行されていたのだろう。お婆さんとご夫婦のみで営まれている。
器、箸袋、山椒の小袋、出前の時におぼんに被せている包み紙、に至るまでこの某有名老舗うなぎ店の屋号が印字されている。
ところが、この有名老舗うなぎ店のサイトに暖簾分け店として、”その鰻屋”は載っていない。(ほかの暖簾分け店は載っている)
上述通り、本家屋号の入った小物を使用できていることからして、オフィシャルだと思うのだが謎の一つなのだ。
もう一つの謎。
”その鰻屋”は冒頭の落語にあるようなひどく汚い店構えなのだ。
時代が付いた古さというそんな粋なものではなく、だいたい入り口の破れたひさしには「ラーメン」と書かれてある。
潰れてしまったラーメン屋にしか見えない店構えだ。そもそもどこをどうみても鰻屋には見えない。
しかも、数年前からイートインはやめてしまって、現在は出前オンリーになってしまった。
上の写真は昨年の夏頃に撮ったもの。現在はこの店舗は使用されていないが、営業中の時とさほど見栄えは変わっていない。
リスペクト。
1967年か68年の「おはよう!こどもショー」に筆者は出演したことがある。通っていた幼稚園がテレビ局にお呼ばれして室内運動会的なことをやった。(だと思うが正確な経緯は知らない)
当時、テレビに出るという概念を持っておらず、遠足か何かで遊園地にでも遊びに来た感覚だったことを覚えている。
Wikipediaをみたら、「おはよう!こどもショー」は1969年頃まで生放送だったようだ。筆者の年代はまだ生放送だったのかもしれない。
当時一般家庭でテレビ放送を録画することなどできなかったから、そう言われてみれば同居していたお祖母ちゃんに、〇〇ちゃん(筆者の本名なまえ)自分をテレビで見られないねとか、言われたような気がする。
だからだろうか、テレビ局が出演中のスチール写真を何枚も撮ってくれて、それをあとで記念品として貰った。その写真はまだあったと思う。どこいったかな。
確か、大きなスポンジの玉を転がす競技みたいなのをやった。目の粗いスポンジ片とかスポンジ臭もなんとなく覚えている。
放送が終わって、スタジオの出入り口のところで、テレビ局からお弁当のいなり寿司をもらって園児達や母親達と食べた。天井がものすごく高くて薄暗かったのを覚えている。
そういえばロバ君がキンキン(愛川欽也さん)だったことはもう少し大きくなってから知った。
あと幼稚園の記憶といえば、ブルーシャトウの替え歌だ。幼稚園の送迎バスの中で、大合唱した覚えがある。
もりとんかつ いずみにんにく かーこんにゃく まれてんぷら
しずかにんじん ねむーるんぺん ぶるーぶるーぶるうしゃとー
「るんぺん」という単語が出てくるところが時代だ。
そんなことしてると大人になってルンペンになっちゃうよ、と常套句で用いられていた時代。
否!ルンペン上等ぉ~と見得を切った子供時代から正しく一向に上向かない筆者が所属するdewey delta(デューイデルタ)というテクノデリック的生ドラムアンド生歌唱付きエレクトロニック音塊楽団のライブはこちら。あれとこれとそれも。
詳細しばしお待ちくらさい。
2021年5月3日(月曜祝)
@Wild Side Tokyo
筆者は中学生の頃、深夜放送にハマっていた。ニッポン放送のオールナイトニッポン。
中2の頃が一番聴いていた。
当時パーソナリティはこんな塩梅だった。特定の曜日ではなくおおむね全部聴いていた。
(1部のみ)
月・くり万太郎
火・所ジョージ
水・タモリ
木・自切俳人
金・つボイノリオ
土・笑福亭鶴光
平日は主にカセットにタイマー録音していた。ほぼ毎日聴いていた。そのカセットテープはまだ少し残っている。44年前のカセットテープ!
自切俳人が北山修さんと知ったのはだいぶ後になってからだった。
当時タモリさんはエロ変態な話が多くて変態お兄さんという印象で筆者は好感をもっていた。所ジョージさんは当時ほぼ無名で変わった歌を作ってアコギ弾きながら歌ってるお兄さんだった。
オールナイトニッポンを聴いていくうちに所ジョージさんの曲が気に入って、結局ファーストアルバムを皮切りにその後通算LPアルバム4、5枚は買ったと思う。
大人になってから(テクノ音楽ばりばりやってるのに)CDで買ったり、iTunesで買い直したほどに今も好きだ。
そんな所ジョージさんの「寿司屋」という曲がある。
「~ 寿司屋でコーヒーが飲めるわけもなく ~」というくだりがあるが、今なら、くら寿司とかで飲めるよなーとか思ったり。
と、ここまでが枕。
筆者はこの年齢(アラカン)になっても回らない寿司屋(カウンターのみの店)が怖い。というか、ほぼ入ったことが、ぬ。
思い返せば、20歳代のときに住んでいたアパートの大家さんに誘われて(おごりで)近所の寿司屋に入ったのが最後かもしれない。いちおうカウンターのみのお店で、口頭注文の回らない寿司屋だった。
でも、このお店はご主人がだらしなくて、なんとタバコを吸いながら寿司を握るという暴挙の店なのだ。納豆巻きを注文(回らない店で納豆巻き!)したら、コンビニまで納豆買ってきます店番頼みます。って店だったから食べる方もびろびろーーんとしてればよかった。料金も回転寿司並みだった。
こういう店は好きだ。
上述のお店は特殊案件として、一般的なカウンターだけの寿司屋でも「にぎり上」とか「にぎり松」とかのセットになってるものをぱぱっと注文すれば、対応できるんじゃないの?
否、回らない寿司屋の何が怖いって、カウンターで職人とのサシの掛け合いが怖い。
今日も冷えますねー とか
今日のおすすめのネタは何 とか
とりあえずビール とか
筆者はいわゆる「大人の」、「ちゃんとした常識ある大人の」 「食」のそれ というこのシチュエーションにおける職人さんとのコミュニケーションが、もうどうにもこうにも居たたまれず怖い。
結局寿司屋に限らないのだが、「ちゃんとした」美味しそうなお店(お高そうな)は敷居が高くて怖いのだ。
若いころならいざ知らず、もう人生も半分以上経験した人物が、何を怖がっているのだと思われるかもしれないが、歳を重ねてもどうにもならないことは多いのだ。楽しい。
ちなみに、寿司屋の詞の最後にある
「救いのミコは御母の胸に倒れ切っていた」が
「救いのミコは三鷹の駅で倒れ切っていた」というバージョンもあることを付け加えて終りにしよう。ではまた。
拙屑ブログのオツな床屋さんシリーズをまとめた記事「(No.2233): 床屋を訪なう。シリーズ」。
このシリーズに登場していた「昭和50年代で時間が止まった床屋さん」は残念ながら廃業されてしまったようだ。
たしか2年ほど前、お店の前を通ったらドアに張り紙。暫くお休みしますと書かれてあったのだが、その後お店は開かず、今ではシャッターが降りてしまっている。
この床屋さんの以前に通っていた老夫婦の経営する「生活用品が散乱する床屋さん」は、今でも商いをしている。
たまには行きたいのだが、しかし筆者は数年前からこのようなオツな床屋さんに行かなくなってしまった。
筆者はもともと美容院が苦手であり、こ洒落た予約必須床屋も嫌いなのだ。だから、上述のようないわゆる町の昔ながらの庶民床屋さんが好きだった。
しかしここ数年は無表情でシンプルな1000円床屋をよく利用している。予約も不要だし、日時を工夫すれば待つこともほとんどない。それに筆者のようなちょっと変な髪形(ソフトモヒカン)も対応してくれるのでたいへん重宝している。
味もそっけもないチェーン店の場合、理容師さんの出入りが激しいので、ソフトモヒカンをお願いしても毎回髪形が異なるのも気に入っている。
ちなみになぜ美容院が苦手かというと、予約しなければならないうえに、仰向け洗髪の間が持てないからだ。カットだけならまだいいが。
そうそうカットで思い出した。
二十歳くらいのころ気取って初めて美容院へ行ったときの話なんだけどさー。
受付で「本日はどのようにいたしますか」と聞かれたんで、今まで床屋しか行ったことがなかった青年エフオピは、
え?ビヨウインって受付で聞くのか?と思いつつ、「あ、はい、ここを短く刈り上げてください。もみあげはテクノカットで、ここはツンツンに立てて云々かんぬん」とさんざん希望を言ったらさ、
受付の女性美容師さんが半笑いで「カットでございますね」と言ったのよ。
そうか、美容院って、なんか「カット」だとか「カラー」「パーマ」とかメニュー化されてるんだっけ! どわちゃー恥ずかしいー!ってなって、
「・・はいカットで・・」ってぼぞっと言った後、待合で待ってる時のほかの客の視線の居たたまれなさったら半端なかったよー って話が鉄板でした。
先日のNHKドラマを観て、まったく同じ!そうそう!あるある!と思った。
子供の頃から一番嫌だったのは自己紹介で名前を言う場面だった。
なぜなら筆者も吃音者だからだ。
特に苗字を言う時は”難発”になる。難発とは最初の一音が詰まって「きっ 。。きっ、きっ、きっ、、、」となる吃音である。ひどいときには息もできない。
吃音では特定の行(あ行か行などの行のこと)で出やすいという傾向があるが筆者も同様で出やすい行とほとんど出ない行がある。
一般の人がよく言うことに、どもってしまうのは緊張しているからだ、あがっているからだと指摘する人もいるが、それは大きな誤解である。吃音は緊張とは直接関係はない。
よく漫画などで緊張してるシーンで「な、な、なんということ!」みたいな台詞があったりするが、これは吃音ではない。あと、「噛む」という表現も吃音ではない。
子供の頃は喋るとほとんどどもっていたが、大人になるに従ってどもりにくくなったが自分の苗字や特定の行は今でもどもる。
ややこしいのが、大人になるとどもる言葉を別の言葉に言い換えて会話するので側から見るとそんなふうには見えない。
それと大人になると素の自分を隠して演技するようになる。演技中はあまりどもらないのだ。
あるいはリズムに乗ってしゃべったり、ある特定の言葉のあとに言うとどもりにくくなる、など喋る時に様々な工夫をすることで、吃音を遠ざけるようにしていた。
特に電話が苦手だ。
仕事の電話を掛ける場合、会社名や名前を言わなければならない。別な言葉では言い換えできない。
なるべくその場面を回避していたが仕事ではそうもいかず難発をかまし、発声までに長い「間」があったり、電話口で何か破裂音が断続的にしてるから 相手からはイタ電??「??もしもし?どちらさまですか?」とか何遍も言われるし、その電話を聞いている周りの連中の息を呑むさまがわかる。マジで血の気が引くという経験を何度もした。
あるとき、ある言葉を言った後に続けたらどもらなかった。この体験が脳に記録されたのか以降はその言葉を言った後だと概ねどもらなくなった。
ただし言葉のリズムのタイミングを外すとやばいけどね。へへーん
高校1年のとき、体育柔道の最初の時間、先生から、「おまえ、これ苗字なんて読むの?」と聞かれ、これはもう言うしかないので盛大にどもりながら言った。そのとき先生は無反応だったが、周りの生徒がざわついていた。
YMO増殖に収録されているスネークマンショーの「KDD」のギャグでは友達からエフオピみたいだなーとからかわれた。
しかしなぜか吃音であまり悲観したことはなく、中学の時はFMミニラジオごっこでどもりながら喋ってたし、高校生のときは喋ることがメインのアマチュア無線の資格も取ったし、「そのうちなんとかなるだろう」(植木等さんの曲)などとあまり真剣に悩んだことはなかった。
それは今も続いていて、筆者は今は勝手にこれも個性なんだと思っている。
古い拙屑ブログをつらつらと眺めていたら、自分で書いたものなのに面白れぇなぁ、と時間も忘れて読み耽ってしまった。
そこで見つけた2013年12月の記事、deweyライブのフライヤー画像やそれに乗じて展開された雑駁な物語が楽しい。しかも、物語はtairaさん側の世界とエフオピ側世界が繋がっているように描かれている。
↓
tairaさんの物語は程よい文学的な表現や構成力の高い文章、リアリティを伴った台詞で創られており、とても読み応えのある作品だ。映画の一遍を観ているように感じる。
一方筆者の方は、一部屋の中だけの物語という体で設定を狭くしてボロを出さないようにした(出てるけど)「晃一郎と吉之助」シリーズである。
おそらく最初はtairaさんがこの時代感でお話を創ったのが切掛けだったと思う。それに筆者が便乗した格好だ。
舞台は別な世界の日本の大正から昭和一桁時代を模している。ただし、筆者側にはMacBookやAbletonLiveは存在している。いわゆるスチームパンク概念の世界観。
元官吏の晃一郎(フルネームは裏神晃一郎)は上野切通停留所傍の木造二階家の二階に下宿している設定。確か階下は道具屋だった。
近所に住むまだ学生(だがほとんど通学しておらず)である吉之助は晃一郎を兄貴と慕っており、しょっちゅう部屋に出入りしている。
彼らは江戸弁を話す。これは筆者が敬愛している古今亭志ん朝師匠の粋な江戸弁が好きだからだ。
どの巻も話の筋は、晃一郎と吉之助によるdeweyライブのどえらい遠まわしな番宣の体であるが、あまりの素っ頓狂加減で何の話だかわからないようになっている。
加えて、”通りに面した一尺ほどの小窓”という文言や、季節感を表す表現をどこかに入れるというルールを自分なりに作っていた。
そんな自己満足型の典型を地でゆくこれら執筆活動(または戯言)は、今思うとdeweyのプロモーションのつもりだった。
当時deweyのライブは集客がほぼゼロに近かった。だからこうした駄文でも、ひょっとしたら誰かの目にとまってくれるのではないかと、期待をしていたのだ。
まぁ目にとまったところで、こんな物語を書いている奴らの音楽を聴こうと思わないだろうし、ましてやライブに足を運ぼうなどと思う人はいなかっただろう。
おまけ
過去ブログを漁ってたら、ハッチャキさんと初めてお会いし共演したときの記事を見つけた。まさかこの5年後に同じバンドメンバーになるとは夢にも思わなかった。
↓
(No.2300): dewey ライブ後記(at LastWaltz)