2021/12/22

(No.2613): 晃一郎と吉之助(高円寺掲唱伝搬)

 

年の瀬。午後の日差しは柔らかだが道行く人々は襟を立て足早である。向かいの辻から亀住町行きの東京市電がガタコトと揺れて路地に消えていった。

その市電の通る表通りの辻に木造二階家がある。階下は道具屋になっており、仕入先のわからぬ怪しげな物品やどこかで拾ってきたのか万国の奇物を並べて商っている。道具屋の店主は晃一郎を気に入ったのか格安で二階の六畳を貸している。

六畳間に設えた一尺ほどの小窓はほんの少しだけ開けられている。それがかえって部屋の火鉢の暖を豊かにしているようだ。
その二階の六畳で晃一郎が白湯を舐めつつiPhoneをせわしなくスクロールしていたところに、階段をばたばたと上がってくる音がした。

晃さん、いるかい」
吉之助が無造作に学生鞄を放り投げながら畳に転がり込んだ。

「いるとわかって来てんだろ」
「うへへ、晃さん留守でも来ますがね」
「俺ァ、いま忙しんだ、おめぇの相手なんぞしてらんねぇんだ」

見下すように細い目をして晃一郎はそう言うと、またiPhoneに顔を近づけた。

「あに、やってんでさ、あっしにも教えておくんない」
うるせぇなぁ、おめぇにゃ関わりのねぇ、、ことよ。。。」

と言いながら晃一郎は顔を上げて吉之助をしばらく睨むと続けた。

「・・そうだ、おめぇ、二十七日は暇か」
二十七日ってぇと、次の月曜ですかい。あに言ってんすか、ひ、暇じゃぁねぇですよ。もう忙しくて忙しくて」

そう言うと吉之助は鞄を引き寄せてがちゃがちゃと開け始めた。

「ほーかい、じゃぁおまいさんは誘わないでおこう」
二十七日になんかあるんすかい」

白湯を一口飲んで晃一郎はにやけて言った。

「おめぇ、嘗ての”奴ら”は覚えてるか。。。軍装の」
「・・・ぐ、軍装って、ええええッ、奴らが現れるってんですかい!二十七日に!」
だから俺ぁこうして切符を買おうとしてたんでぇ」

iPhoneでイープラスの画面を吉之助に見せながら晃一郎は続けた。

「それが、おめぇの前(めぇ)だがな、奴ら第二形態化してデューイデルタてぇ名乗ってるらしいぜ。その名乗りも既に三年は経ってるってぇ噂だ」
「そ、そりゃ一体、どうなっちまったんですかね」
第二形態化ってぇのはよ、詰まるところ一人増えたてぇ話だ。しかも増えた奴ぁ、古の”和む”界隈での戦歴がある輩らしいぜ

それを聞くと吉之助は立ち上がり、その場でくるくると回りだした。

「こ、晃さん、おいらはもう居ても立ってもいらんねぇや」
「おめぇ落ち着けよ、話はそれだけじゃねぇんだ。それで二十七日、杉並特区高円寺の「はい」てぇ箱でおっぱじめるらしいんだが。。」

そこまで言うと晃一郎は、一尺ほどの小窓を閉めに立ち上がった。ついでに火鉢のやかんから白湯を湯吞に注ぎ、吉之助の前に突き出した。

「おめぇ、それ飲んで落ち着け」吉之助はあちあちと言いながら白湯をすすり大きく息をついた。

「それがよ、おめぇの前(めぇ)だがな、二十七日は奴らどころじゃねぇんだ。ハローイチイチゼロサン、ミウラトロン、呼吸するシークエンスうら」
「なんすか、そのおまじないは」
「おまじないたぁ、言い得て妙さな。おめぇきっと腰が抜けるぜ」
「こ、晃さん、二十七日はおいらも連れてっておくんない」


「”馥郁たる八茎の音薫” か。。」

晃一郎はひとりごちるとそれには答えず、イープラスの切符枚数を二枚とフリックしていた。



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呼吸するシークエンス#裏 12/27 (月) KOENJI HIGH 開場17:30 / 開演18:00 前売3000円 / 当日3500円+1D代 -出演- dewey delta 三浦俊一(miuratron) Hello1103 会場 → e+

有料配信 → ZAIKO

詳細










2021/11/26

(No.2612): FT8の誘惑

聞くところによると、昨今は筆者のようにアマチュア無線にカムバックする人が多いとのこと。

筆者が高校生の時に電話級(今の4級)を取ってアマチュア無線をやり始めたのが1979年とか1980年頃。統計によると1980年代がアマチュア無線人口が一番多かったらしい。その後、携帯電話やインターネットの普及でだんだんと減り続けた。

1980年代に10代だった人がその後働き出して忙しくなり、または飽きてしまったりしてアマチュア無線をやめてしまったが、30〜40年後ここ最近またやり始めたという事例がとても多い。筆者もその中の一人。
カムバックの理由。仕事がひと段落したり、リタイヤする年代だったり、子供が成人したり、またはコロナ禍のステイホームから昔の趣味が再燃という方もいるだろう。

ちなみに筆者の場合はそのどれにも当てはまらない。
切っ掛けは、大掃除中、段ボール箱から昔の無線機が出て来て、おおお!今こそこれだよこれ!と1.3秒くらいで再燃した。人生って不思議。

 しかも、一旦火がついたら誰にも止められない。
だから今年の8月中旬、大雨の中、3級アマチュア無線・無線従事者国家試験を受け、40年ぶりに資格のステップアップを果たしたりもした。自分でも驚くべき行動力だ。
受験勉強なんぞそれこそ数十年ぶりだった。


筆者はなんだかんだで1990年くらいまでアマチュア無線は細々とやっていたので、約30年ぶりの復活ということになる。
実際、最初は浦島太郎だった。CQ誌(音楽業界でいうサンレコにあたる雑誌)を購読し始めて最近の状況やトレンドを貪り読む。ネットをググりまくる。

FT8という通信方式が大人気だという。
FT8とは無線設備とPCを使ったデジタル通信。特徴は弱小な設備でも、DX(遠い局、主に海外)との通信が出来ちゃうという。

無線で話して相手と通信する場合、もちろん受信した音声を自分の耳で聞いているわけだが、遠い局の弱い信号はノイズの中に埋もれてしまって聞き取れないことが多い。
FT8は人間が耳で聞く代わりにソフトウエアで受信音をデコードするという仕組みである。

つまり、音声(人の話声)ではなくデジタル信号を送り合い、無線機で受信した音声をソフトウエアで解析(デコード)して通信する。
だから、ノイズに埋もれた信号でもデコードさえできれば通信が可能となるという理屈で、弱小な設備でもDX局と交信ができるのだ。


どれどれと、筆者も環境を構築し、さっそくFT8なるものをやってみた。
(ちなみに、FT8をやる場合、総務省総合通信局へ届出が必要である)

18MHzで午後から夕方まで、ヨーロッパが入感。イタリア、ブルガリア、ハンガリー、フィンランドなどなど簡単にQSO(交信)できた。9000km以上も離れた場所へこんな貧弱なアンテナから電波が飛んでってるのか!ちょっと感動した。
何より、話さなくて良いので英語ができなくても問題ない。

いや問題だ。あまりにも楽しくてどんどん交信してしまう。ヨーロッパ諸国をはじめ南米、北米、オセアニア、アジア、ロシア方面など、電離層のコンディションにもよるのだが、普通にワッチしてても聞こえないのにFT8だと交信できてしまう。
しかも、QRZ.comサイトから今交信した人の住まいやらシャックやらが簡単に見れてしまう世界線。最高にパンクだ。FT8の誘惑はまだまだ続きそうだ。


2021/11/19

(No.2611): 杯の道 (streetcup顛末記) 其の拾壹

 この杯の道シリーズが最後に書き込まれたのは2017年9月というのだから4年も前のことになる。どうりで、車検も2回目が到来するわけだ。
筆者のオートバイ Triumph StreetCupも2回目の車検を迎える時節になった。



嘗て、仕事場へ往復走行距離50Km、ほぼ毎日、駆っていたことを思うと、ここ数年の走行距離は嘗ての一カ月にも満たない始末。長距離ツーも最近とんとご無沙汰だし。

そんなことだから、久々にエンジンを掛けようとしたら、ンクンク と鳴ったきり動かなくなってしまった。バッテリーあがり。
幸い、四輪(フィアットパンダ)からのバッテリージャンプが可能なのでそれでエンジンを掛けて、バッテリー充電を兼ねて少し走る。
久々にバイクで走ると、そうそう、これこれ、これだよー という感慨になる。ニーグリップして旋回する颯爽感。
先月、tairaさんと久しぶりに都内オートバイ並走楽器屋ツーに行った時もバッテリー充電しつつ都合100Kmほど走った。


ところで前々から思っていたTriumph StreetCupの直したいところ。
どう考えても、このライポジ(乗車姿勢)が解せない。
つまり、ほぼセパハンに近いハンドル位置の設計で、そもそもカフェレーサーモドキを提唱するのであれば、ステップの位置はもう少し後ろでよかったのではないか。

だって、乗りにくいんですよぉ。
なんちゅうの、前傾姿勢なのに、足だけ真下へ下ろすんだよ。やっぱり、この場合、足は所謂バックステップで丁度よい塩梅になるはず。

本物のカフェレーサーであるところのTriumph Thruxtonを運転したことあるけど、やっぱり、あれ。あのポジションが正統で正解。
ThruxtonはStreetCupよりもタンクが長いので、一概には言えないけど、せめてバックステップになっていれば、概ね幸せになれると思う。

概ねというのは、たぶんあれでバックステップになったら、日本人の足の短さ故、完璧に膝が熱塊のエンジンフィンに接触する。
火傷上等。
うそ、熱いの嫌だ。でも、姿勢はきっとバッチリなはず。

と鼻の穴を広げながら息巻いていたら、世界で唯一と謳われているWM製のStreetCup用バックステップKITなるものがあるのを知る。


先ずは年末ジャンボ宝くじを買うのが決まった。


2021/09/29

(No.2610): フジロック2021

0日目 前夜祭なし。無歓声の中の花火大会。特別感。 

1日目
ホワイトステージ 砂原さんと今井さんのMETAFIVE。しか印象に残ってないほどの圧巻ステージ。リベンジ感。いやむしろ次回リベンジなのか。

2日目
レッドマーキー THE SPELLBOUND。轟音エレクトロニック。

3日目
夜。雨の中ホワイトステージの先にあるアバロンで永福町大勝軒っぽいラーメンを食べていると、鎮ZさんからLine。
「いま、ホワイトステージの裏にいます」
って言われても、そこ行けんし。

「平沢進+会人」終演後、鎮Zさんへお疲れ様でしたとLineしたものの、実は僕、平沢さんの途中でグリーンステージの電気グルーヴに行っちゃったんだよとは言えず。

電グル後、レッドマーキーのまりん砂原さんへ。24時前には終わるという健全なフジロックだった。
様々な情勢の中、賛否に塗られて行われたが、厳格な導線、お酒類持ち込み禁止飲酒禁止、消毒・検査・検温などなど徹底的に統制管理して実施されていた。

客数制限や時短はむしろとても快適だった。特に酔っ払いが一人もいないのがよかった。そして筆者が観たライブでは無歓声で、拍手のみだった。みんなちゃんと守っていた印象。









2021/08/24

(No.2609): 魔法の仕組み

 昨今Spotifyなどのサブスクで知らなかった数多のエレクトロニック系音楽を聴くことができる。
それらを聴いて改めて想うことは、”音色(帯域)”及び音響技術が楽曲制作に重要な要素を加えているという事実である。

特に音数の少ない楽曲は顕著だ。例えばリズム系とベースのみの曲での、各楽器が聴感上の領域一杯で鳴る存在感の完成度。
けっして、音圧を強調したかまぼこ型波形ではなく、極めてダイナミックスのある波形。(きっとそうに違いない)

そういう曲は、キック、スネア、ベース、グルーヴにつながるハットや小粒な短いディケイシンセ音シーケンスのみでも、十分聴きごたえを感じる。
小さな音も帯域に埋もれずにはっきりとそこに存在し正しく曲の構成の一部となっていることを確認できる。そして、ふくよかな低域に支えられた自然な高域も。
包み込まれる立体感。
各音色が必然と鳴っている確かさ。


誤解を恐れずに言うなら、それほどよいフレーズでなくても、音色(帯域)と音響処理で格好良く聴こえるから不思議だ。

その理由はおそらくエレクトロニック音楽は、演奏や旋律とは別に”音色(帯域)”も一つの表現方法であるからだろうと考えている。従ってこの魔法は概ねエレクトロニック、テクノといった楽曲にこそ真価を発揮するのかもしれない。

筆者は前々からこの魔法の仕組みにとても興味を持っている。


楽曲制作において音を重ねていく場合、その音にのみ注力せず、楽曲全体としてその音の必然を感じとることが重要なのかと思う。音数に限らずこれがこの魔法の肝ではないかと最近得心した。

(一方で不要な音を詰め込む手法で表現することも支持する。敢えて汚すことも重要だし面白い)

難しいのは、制作中は試行錯誤しながら進行するため、音色=帯域のぶつかり具合に無頓着になってしまうことだ。
ベッドルームクリエイターにおいて、せっかく作った自画自賛パートをどれだけ客観視できるか、愛着あるフレーズや時間を掛けて作った音色を目的のためなら容赦なくダメ出しディレクションができるか、だろう。

その辺りをほっぽらかしにして、最後はEQやマキシマイザーで茶を濁すのは文字通り濁すことになると肝に銘じてチョコモナカアイスジャンボを頬張りたい。頬張っていきたい。


2021/08/03

(No.2608): 「アマチュア」とは”素人”のことではなく自由な私的学究のこと(長文)

くだんのとおり40年ぶりの復活に向け環境を整えつつあるアマチュア無線。
無線機もさることながら世界への窓、すなわち空中線(アンテナ)の建設にここ2カ月ばかり奔走しております。

ところで、おそらくアマチュア無線のことをよく知らない読者が多いと思うので、簡単に紹介しておきたいと思うのですが、しかしね君、これは意外と説明が難しいぞ。


アマチュア無線を一言で言うなら「無線を使って世界中の人たちと通信する。」とかになるんだろうけど、こう書くと誤解を生じる感ひしひし。
そして、は?何で知らない人と?キモイ意味わかんないー、世界中?なにそれー、SNS?みたいな?
???となる。
うむ。確かに意味わかんないね。世界中とは言い過ぎか。そしてどこが面白いのだろう。

だって今では一人一台スマホ持ちで誰とでも連絡取れるし、SNSもあるしで、いまさら無線なんて。
だって無線ってつまりトランシーバーなんでしょ?そんなもんなくても連絡できるじゃん。

というご意見ごもっともです。


でも実はですね、アマチュア無線というのは、その目的がまったく違うものなんですよね。
それを的確に表しているなと思ったのは以下の無線通信規則の「アマチュア業務」の定義なのです。

「アマチュア、すなわち金銭上の利益のためではなく、もっぱら個人的に無線技術に興味を持ち正当に許可された者が行う自己訓練、通信及び技術的研究の業務をいう。」
(ほぼ同様の内容が電波法施行規則第3条第1項第15号にあります)

ちなみにアマチュア無線の「アマチュア」という文言は”素人”という意味ではありません。非営利目的で行う自由な私的学究を意味しています。(wikipediaより)

つまり、連絡の手段でアマチュア無線をやるわけじゃないのです。(そういう時もありますけど)
例えば、この自作アンテナでどこまで電波が飛ぶのかとか、こんな小さな送信電力でどのくらい遠いところと通信できるのかとか、各種アワード(※)を狙ってみるとか、
あるいは外国の局とぐだぐだな英語で交信しまくるとか、モールス通信(CW)による交信でビビりまくるとか、定年間近のおっさん二人が休みを合わせて秋葉原で無線屋で買い物する段取りを雑談しまくるとか、
つまり興味からくる楽しみのためにやるのです。

(※)アワード とは:交信した地域や局数など一定の条件を満たした場合に交付される与えられる証明書・認定書

筆者のような音響的にアレな輩なら、マイクをSHURE57に変えてマイクプリなんかもかましてみようとか、あるいはHF帯の空電ノイズをサンプリングして曲に使ってみようとか。(←もはや無線と何の関係もない)
そんな楽しみ方もできるのです。


まぁ基本的には、誰かと交信することには違いありません。
初めての局との交信は概ね決まった内容で行われます。レポート(信号強度と了解度)の交換、運用場所、名前、QSLカードの交換有無の確認くらいでしょうか。
QSLカードというのは交信証で、無線局それぞれが独自に作るポストカードです。

またアマチュア無線はQ符号というQから始まるアルファベット3文字の世界共通の略語や、独特の言葉使いなんかもあります。
Q符号は例えば、交信のことをQSO、名前のことをQRA、運用場所をQTH、誰かこちらを呼びましたか?はQRZ?
などなど、
あと例えば、「良い」ことを「FB」(エフビー)と言ったり、交信終了してさようならは「73」(セブンティスリー)と言ったりします。


無線局に付与される呼び出し符号(コールサイン)など、アルファベットの言い方に関しては、NATOフォネティックコードを使用します。
「A」はアルファ、「B」はブラボー、「C」はチャーリーというアレです。
ただ、法的に決まっているわけではないので例えば「J」はジュリエットですが、ジャパンと言ったりもします。

自分の無線局に付与されたコールサインは世界に一つです。コールサインで国や地域がわかるようになっています。



さて、上述でも示したアマチュア業務の定義ですが、その中に「正当に許可された者が行う」という一節があります。
”正当に許可された者”というのはつまり、資格取得が必要ということです。
アマチュア無線をやるには、人に付与される無線従事者免許と無線設備に付与される無線局免許の二つの免許が必要です。管轄は総務省の各地域の総合通信局です。

アマチュア無線の無線従事者免許は1級から4級まであり、無線工学及び法規の国家試験に合格しなければなりません。
加えて、実際に無線機やアンテナを揃えて無線局を運用するためには無線局の免許が必要になります。こちらは、無線従事者が送信機や空中線(アンテナ)の仕様を総合通信局へ申請し免許を発行してもらいます。
1級から4級の違いは、主に送信出力の大きさと使用できる周波数です。(4級はモールス符号による通信はできません)


筆者がハマっていた35年くらい前がおそらくアマチュア無線人口のピークだったのかもしれません。最近はだいぶ減ってしまったという話を聞きます。
目的は異なりますが確かにスマホ普及やインターネットがあれば、離れている人とコミュニケーションが簡単にできる時代なので、普通の人は国家試験受けてまで無線なんかやろうとおもわないですよね。

でも、かっこいいんだよー(風で乱れた前髪を直しながら)


ここまでで、けっこう長い文章になっちまったのでやめておきます。
が、まだほんの1ミリくらいしか話せませんでした。
次回「何故アマチュア無線はおっさん人口が多いのか自分も含めてキモいのかなぜキモいのかおいなぜなんだなぜなんだとゆっている」をお送りします。そりでわ。

2021/07/14

(No.2607): あの頃のサンバイザー

dewey ライブ 2010年8月21日 新宿ヘッドパワー




おわかり頂けただろうか。
かのdeweyサンバイザーを装着している。
今から11年前にもなるのかと驚愕しつつ、たしかサンバイザーは腕章と同じく作ったこの頃だろうと探したら写真が1枚だけ見つかった。

この当時は第二期のdeweyなのでメンバーは3人。ベースでkeiさんが加入されていた時期。
奇しくもdeweyサンバイザー着帽はステージ上手側のkeiさんだった。そしてそれが違和感なく普通にかっこいい。
tairaさんはステージ下手側は今も変わらず定位置。
筆者はこの時期はドラムだったのでこの角度の写真に写っていない。

この頃、tairaさん機材が少ないなー
しかも、たしかシンセじゃなくてMIDIキーボードだった気がする。音源はソフトウエアで。

筆者は手元にBOSS BR600(8TRのデジタルMTR)を置いていて、それにバックトラックを仕込んでいた。
クリックは使ってなくて、バックトラックを聴いて叩いていた。だから、バックトラックにはリズム取れるようなわかりやすいビートを必ず入れていた。

ちなみに筆者はへっぽこドラマーだったのでハットをきっちり開閉踏めず、すごく汚いリズムだった気がする。アンドよれよれビートなので味があった。(悪い意味で)


(切っ先を尖らせて)
(やるせない想いで)
(ふんぞり返って)
(さばさばして立ち上がって)
(おなかの肉をつかみながら颯爽と)




※この文章は2046年アイルランド ガラ湖クローワイ湖畔の砂地から発見されたポリカーボネイト板に原始的なポラリ語の一種で書かれていた文字を現代語に訳したものです。

2021/07/08

(No.2606): 怪異! 勝手に外れるドライバの怪

<現象>
・Ableton Live11 + UA Apollo Twin MkII にて運用中、突然Apolloが認識しなくなる。いわゆるドライバソフトが外れる。


MacBookProのOSをBigSurに変えたときは何でもなかった。
現象がではじめたのは3、4カ月前くらいからか。BigSurに変えたのはもう少し前だった気がする。

BigSurとの因果関係は「エビデンス」がないので不明だが
そもそもBigSurにしなければならない状況になったのだ。

すなわち
iPhoneをMBPにバックアップしようとしたら、OSが古いので新しくしないとバックアップできません的なことになったため、AbletonLiveとUA Apollo TwinがBigSurに対応するのを待って、MBPをBigSurにアップデートしたのだった。
Apollo Twin周りとしてUADソフトウエアもファームウエアもBigSur対応にアップデート完了した。


わたくしに何か落ち度がありましたでしょうか。


<ドライバが外れる時の状況>
・何も触らずにしばらく放置している時
・Ableton Live 再生中!
・Apollo Twinを物理的に少し動かした時

上記の状況で必ずしもドライバが外れるわけではなく
数時間放置しても何も起きない時もあるし、
接続中のApollo Twinを物理的に動かしても問題ないことの方が多い。


<対応>
・Apollo Twinを再起動
・MBPも併せて再起動(その場合先にApollo Twinを電源ON)

上記何れの場合も、復旧するときもあるし、復旧しないときもある。
復旧しなくて「ったくなんだよーざけんなよー」などと呪詛し
しばらく放置したあと起動すると何もごともなかったように認識する場合もある。


ここまでの状況証拠から、意外にThunderboltケーブルが劣化したのやも。
と思ったりもするが、、、

Thunderboltケーブルの接触的なものなら逆に簡単な話なのだが、
Thunderbolt2->3変換アダプタやUSB-C形状ケーブルはすべてAppleの純正部品(それなりに高価)を使っている。
Appleの純正部品(それなりに高価)を使っている。(2回目)

え?そんな2年?くらいしか使ってないのにもう接触不良とかになっちゃうわけ?
費用対効果バカ悪過ぎじゃねとか思いつつ、それで直るならとも思ったり。

しているわけなのです。いまここ


(BGMは 北山 修、 加藤和彦 「あの素晴らしい愛をもう一度」)



2021/06/22

(No.2605): 無意識の顛末(鎮静剤経口内視鏡検査全記録)

 過日、18年ぶりに胃カメラを受診した。

(15年ぶりかと思ったらもっと前だった。15も18も変わらんだろうとは思ったが3年という長さにはいろいろあるだろう、中学校も高校も3年間だし。しかし中学ってたった3年なのに、振り返ると人生の中でもけっこうな大きな割合に感じている、思いが強い時期なんだろうなと思うよね、マジで、、、えーっと何の話だっけ。)


そうそう胃カメラ。最近は胃の内視鏡というらしい。昔は文字通り太(ぶ)っとい「カメラ」を飲んでいたのでそう呼ばれた。

その18年前の胃カメラは、筆者人生でのほぼ最高ランクのトラウマになっていた。
即ち、黒光する極太コードをぐいぐいのどに突っ込まれて、嘔吐反応しまくりで過呼吸になり白目をむき、腰が抜けた思ひ出。

あの悪夢を、否、夢ではなく現実世界における悪魔の苦痛を再び体験することになるのかと、顔に縦線を施しつつ、予約のための初診に臨んだ。
比較的楽と言われる鼻からやる胃カメラもある病院だったので、お医者に鼻からのやつでどうかひとつとお願いすると
「経口で苦しかった方は鼻からでも苦しいですよ」という詔を発せられ脳天に一撃を加えられた。

てっきり鼻からのやつで楽にできるのかなと思っていたので「え”?なんですと」と、目を白黒させていると
「うちではなるべく患者さんに負担を掛けないよう鎮静剤を使った経口内視鏡をお勧めしています。ウトウトしている間に検査するのであまり苦痛はありませんよ」というではないか。

うむ。確かにその病院のサイトには鎮静剤を使って口から胃カメラのメニューもあったのは知っている。
しかしね君、ぜんぜん眠くもないのに急にそんなウトウトするなんて、ありえんでしょう、普通、ねえ君、実際居眠り運転とかもぜんぜんしたことないし(当たり前だけど) っていうか、やろうと思ってもできない体質なのに、そんなウトウトなんてできんよ君。

鼻でも口でもどちらでもよいですよ、お好きな方でと案内され、”なぁまくさらば たたきゃていびゃく さらばもっけいびゃく”と不動明王真言を唱えながら、結局、鎮静剤+経口内視鏡を選択した。


検査当日。(前の晩いや、初診日からずっと 著しいド緊張状態を継続)
朝8:30に病院到着。

何が恐ろしいって、胃カメラの苦痛もさることながら、
鎮静剤とやらで意識がなくなるっていうか、
眠くなる?っていうか 
そんな、わたくしの今、このばっちり目が冴えている、
緊張のあまり、眠くなど1ミリもない、
このわたくしが、あと30分もしたら眠くなるのか、
という恐怖で胸が張り裂けそうになって、
待合で血圧を測り、
順調に高血圧の結果シートが出力されるのを
わたくしは冴えわたった眼で見つめていたのです。


その病院は内視鏡の専門医なので、リカバリールームと呼ばれる検査後にベッドで休憩できる部屋や、検査前の各種前処置する部屋などがある。

先ずは、前処置する部屋へ入る。大き目のふかふかソファー椅子に座って、胃を綺麗にする液体薬を紙コップで飲む。

すぐに、検査室へ呼ばれて歩いて行く。内視鏡の装置がある部屋のストレッチャーに靴を脱いで自分で仰向けに寝る。
看護師さんが右腕に点滴を挿す。

「まだ眠くなりませんよー。これは水分補給ですー」

そ、そうか。まだ眠くならんのですねと、ひとりごちる。

そこへお医者さんが登場。「宜しくお願いしますー、ではやっていきますね」
よ、よ、よ、よろしくお願いしますと、吃音も順調だ。

「口を開けてください。喉の麻酔ですー」
といってスプレーを口の奥へシューと吹く。

「ごくんと飲み込んでください。苦いですよー。飲み込むとこれ以降唾が呑み込めなくなります」
ごくんと飲み込む。うむ苦い。お、すぐに舌の奥から麻酔が効いてきた。
そしたら、「はいもう一回」といってさらに麻酔スプレーを追加で吹く。


横を向いてくださいといわれ、自分で体を左側を下にして横向きに寝る。

「足を交差させてー、鎮静剤に変えますね」

点滴の途中の管を抜いて注射器を挿しているのがチラッと見えた。あれが鎮静剤かしら。
看護師さんにマウスピーズをつけられつつ、なるほど、唾が呑み込めない。

「唾は呑み込むとむせちゃうので、だらだら出してください」
御意。

顔が横向きなので、マウスピースの口からだらだらと唾液を出す。うふふふ。
看護師さんが「目線はあのあたりに向けていてください」と指をさされた方向へ目を向ける。
ああ、こんなにのどの奥が麻酔で感じないから、このまま意識あっても苦しくないかもしれないなーと思った。


??気付くと、別の部屋で仰向けに寝てる。
各ベッドがカーテンで仕切られている。リカバリールームだろう。右腕の点滴はまだしているが、水分補給のパックのようだ。

すわ!えッ!??? 終わったのか?
胃カメラ おわったのか? まったく記憶がない!マジか!すげーな鎮静剤。

記憶がないので胃カメラ受けたという実感がまったくない。胃や食道もまったく違和感は残っていない。ただ口の左側あたりに涎がかぴかぴになってたくらい。
すげーな鎮静剤。

それにしても、眠いというか ぼーっとしている。でも眠いとは少し違うような。
こうして目を閉じて寝てるのが、あー気持ちいい。

だんだんと頭がはっきりしてきた、ところに看護師さんが表れて、点滴を外してくれて終了。

ベッドから起き上がるとき、フラッとしたけど、頭はすっきりしていた。
その後、普通の待合で待ってから、検査結果を聞く。すべて異常なし。
時計をみたら10:30頃だった。90分くらい時間が飛んでいる。

帰宅してからお昼を食べたら、急激に眠くなって2時間ほど眠ってしまった。
すげーな鎮静剤。


2021/06/02

(No.2604): 無意識の無計画/(番宣含む)

ちぎっては投げ、投げてはちぎる段ボール。いざ梱包の段に透明テープの端を見失い、先端出すのに20分。1分1秒を争うわけでもないが、作業を阻まれてぐぎーと唸る。ひとしきり出荷業務。メルカリ。


その軍資金を充てに、計画は実行されるはずだった。

しかしそれは無計画として実行された。
すなわち計画の計画としての本懐は成さず、計画としての計画は実行されず、まったくの無計画という状態において、それは実行された。

「あれだよね、計画としてはさ軍資金貯まったら満を持して、これをこうしてカートにポイって入れるでしょ。うんうん」
「そんでさ、精算へってボタンを、こうしてポチっとするじゃない。そうそう」
「最後にこの実行ボタンっつうやつをさ、クリってしたら、買えるんだよね。この感じいい絵だよね」

クリック

「あ」
「あ」「満は持していなかったね」



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偶然性による音の連続体がいい。思いもよらぬ音の出現に心踊る。次の展開は作者の思いもよらない方向へと広がる。
(よくわかっていない)

それで果たして作者と言えるのかと罵られる期待も醸し出しつつ、こうして音楽は創られてゆく過程を表現したい。
(よくわかっていない)

その場で創り出す音と音の隙間を作ったり埋めたりする作業と感性。
(とか言いつつよくわかっていない)


2021/06/26 土 バルタザールの連弾

出演:dewey みどりこいとうduo 会場:大久保ひかりのうま(open17:00/ start17:30) 配信:17:30〜 会場限定15名 要ご予約:¥3000+1d ご予約、配信、投げ銭はこち
https://hikarinouma.blogspot.com/2020/06/blog-post.html?m=1


2021/05/25

(No.2603): 秋葉原群像(旧友N編)

 先日、小・中学の同級生だった旧友Nと秋葉原を訪なった。
秋葉原は、近年はライブやら楽器機材やら打ち合わせやらで訪れることもあったが、いわゆる電気モノを物色するために訪れるのは久しぶりだった。

突如急速なる嗜好復活における常套な行いではある。即ち、くだんのアマチュア無線ベクトルの復活だ。

旧友Nもアマチュア無線の免許を持っており、筆者と同じ高校生の時40年ほど前に取得している。しかし、示し合わせて免許を取ったわけではなく、たまたま偶然だった。

中学を卒業してからしばらく疎遠だったが、高校2年の時、筆者自宅屋根のアンテナを見つけ訪ねてきて、「おまえも無線やってたのー?!」とお互いそれを切っ掛けにまた遊ぶようになった。


ところで旧友Nは、筆者のあまたエポックを成すポイントにおいて、必ず登場する男なのだ。
実際、この時から、何か新しいことを始める時には、なぜか旧友Nがそこにいるのだった。

一番の貢献は、テクノだ。
実は筆者が音楽、特にテクノに傾倒し、こっち方面に来る切っ掛けを作ったのも彼だった。

それは忘れもしない1981年の6月。筆者も彼も大学1年生のとき、旧友Nが筆者の家に遊びに来て「スネークマンショー・急いで口で吸え」を録音したカセットテープを聴かせてくれた。
その時に聴いた「YMO/磁世紀 開け心」に突如心が動いた。
そもそもそれが最初だった。

以降は、クルマ、エアガン・サバイバルゲーム、ホーロー看板などの潮流、そしてここには書けないあれとかこれも含めて、改めて振り返るとそこには必ず旧友Nが存在していた。

閑話休題。
そういう目的で訪れた秋葉原だが、無線屋さんがなんと少なくなってしまったことか。
厳密に無線関連パーツということでいえば、ラジオ会館等の小さな小売店でもあるにはあったが、アマチュア無線機やアンテナ関連等を置いている店は4軒だけだった。(本当はもう少しあるのかもしれないが。。見つけられず)
30~40年前の秋葉原はアマチュア無線を扱っているお店がたくさんあったのに。目をつぶって歩いてぶつかったらだいたい無線の店。

アマチュア無線の近況を調べてみると、人口がだいぶ減ったとのこと。
たしかに商品の価格をみると昔に比べて単価が高い気がする。購入者分母が減ったことによるものか。


そんなことを思いつつも電子パーツ屋さんを巡りながら、dewey やdewey deltaで使える飛び道具の物色も忘れなかった。
アラカンのおっさん二名にミニスカメイド服お姉さんが「おにいさん、おにいさん、いまお時間ありますかぁ~」と声を掛けられること百と八回。



2021/05/13

(No.2602): コールサイン

中学の頃(1977年頃)、筆者は鉄道模型が好きで、その辺りから電気工作にも興味が移った。その関係で「ラジオの製作」誌などを定期購読していた。
最初に作った電気工作は、AC100VからDC13.8Vを出力する安定化電源だった。設計は雑誌に載っているので僕たちはそれを見ながら秋葉原で部品を買ってきて自作するのだ。

お金も工具もないのでケースは買えず、かまぼこの板にトランスや端子の付いたベーク版を取り付けて配線した。

何故13.8Vかというと、その時持っていたソニーのトランシーバーの電源として使いたかったからだ。
無線機の電源は概ねこの規格だった。電気工作と共に興味があったのが無線だった。しかし中学の時はまだ免許を持っていなかったのでCB無線(合法のやつ)をやっていた。


高校では鉄研(鉄道研究部)に入った。
鉄研の部室の隣が無線部の部室だった。無線部は国家資格のいるアマチュア無線の活動をするクラブ。
同じクラスのI君が無線部だったので、彼に教わったり無線部の部室で先輩のQSO(交信)風景を見せてもらってるうちに魅了され火が付き、高1の秋に国家試験を受けてアマチュア無線の免許を取得した。



無線部の部長になったI君に、鉄研をやめて無線部に来なよと何度も誘われたが、筆者は鉄研の副部長だったので断っていた。が、実は無線部に入りたかった。
I君とは高校卒業するまで、毎週のように秋葉原へ出かけてはアマチュア無線や電子部品の海を泳ぎまわっていた。

この頃が一番アマチュア無線にハマっていた時期だっただろう。
その後大学卒業後数年間はHF~50MHz(専門用語ですみません。ググってください)を中心に運用していた。


別の章で書いているが、筆者は大学1年の初夏にYMOやKraftWerkと出会って突如テクノ音楽に目覚める。
シンセサイザーや録音機材が欲しくてアルバイトをしていたが、実はこのとき、所持していたHFの無線機を近所の質屋に持って行ったのだ。金に換えるために。
しかし筆者が未成年だったこともあり断られた。(結局は売ることができたがそれはまた別な話し)

その後、1988年頃乗っていたローバーミニでは50MHzのSSBとAMでモービル運用をしていたこともあった。QSLカードはそのミニの写真だった。
しかし、ミニを降りたのを境に急速にアマチュア無線への興味が薄れる。


それから30年経ったここ最近、アマチュア無線への興味がじわじわ復活してきた。
免許を取ってから既に40年、近況がまったくわからないので情報収集しつつある。

情報収集してて一番驚いたのは「旧スプリアス規格」の無線機が2022年11月で使えなくなるということ(2021年3月時点ではこの期日も延長されたとのことだが。。)
所持しているのは古い無線機ばかりなので、マジか!となった。
そして無線局免許状を見たら備考にそのことが書いてあった。ぜんぜん気付かなかった。
紆余曲折、調べたら筆者が所有している無線機は確認保障できる機種だったのでとりあえず大丈夫そうというところまでわかった。


ちなみに、無線従事者免許は生涯免許なので更新は不要だが、無線局免許は数年置きに更新しなければ失効してしまう。失効するとコールサイン(世界に一つ、自分の無線設備に与えられた呼び出し符号)がなくなってしまう。
40年前のコールサインは復活したときに使い続けたいと思っているので、無線局免許は忘れずに更新している。



2021/05/07

(No.2601): 食の嗜好(ガチ)

 電網辺境荒地の辺に存するこのブログに何度となく記した覚えがあるが、今まさに改めてここへ殴り書く筆者の食の嗜好。誰一人として望まない噺。
立ち去ってゆく読者の背中を見送りながら。

(嫌)
お酒。
下戸にして身体的にアルコール類は認めない。毒。DNA的に無理。ぐいぐい来る酔っ払いも苦手。
関連して、お酒のつまみ系大人の食べ物は苦手。

うに、いくら、生ガキ、白子、カニ。
昔、カニで大当たりして大変な目に遭って以来食べられなくなった。

パクチー。
食べ物に非ず。誤って口腔内に入った刹那すべてが台無しになる味。
野菜類は好物だがパクチーだけは論外。

脂が多い肉と内臓系。
肉の場合なるべく脂の少ない赤身を選んでしまう。ホルモンは呑み込めず。

生卵。
旅館の朝食じゃないと食べられない。(特にしろみ)


(好)
納豆。
3パック98円のおかめ納豆で十分。毎日食べる。納豆は欠かせないアイテム。

穀物系。炭水化物系絡み。
白米、五穀米、各種パスタも好き。

基本的にお子様メニューに好物が多い。
ラーメン、カレーライス、スパゲッティ(ナポリタンかミートソース)昭和の喫茶店ランチで。

カレーについては、本場インドカレーなどというナンで食べたりするものではなく、
りんごとはちみつの入ったハウスバーモントカレーの二日目、昭和の家カレーが好物。
具は奇をてらわず、じゃがいも、にんじん、をごろごろと。たまねぎはみじん切りで溶かしてもいいけど大きめでも可。肉は豚肉コマで申し訳ない程度に少しだけにしたい。

ラーメンは全般OK。体調にもよるがこってり系でも行けるときがある。
ラーメンは永福町大勝軒が優勝。

野菜全般。
生でも茹ででも。サラダをわしゃわしゃ食うのがいい。
毎日食べる。野菜ジュースも好き。

発酵食品全般。
チーズ、ヨーグルト、漬物(ぬかみそ)、梅干し。
乳酸菌系は毎日何某か食べる。納豆も発酵食品だけど、高待遇特別扱い。


2021/04/20

(No.2600): 2600回記念「studio D.E.L改の点景 週二回のルーティーン」

筆者は以前、制作環境に常時、楽器や機材がスタンバっているのは好きではないと書いたことがある。
何故(なにゆえ)か。即ち、機材や楽器を出しっぱなしにしておくと、埃が溜まってしまうからだ。ぷふ。

すなわちって顔か。すり鉢みたいな顔して。という詰まらない突っ込みもされながら、そんな些細なことなのかと思われる諸兄の方々。
確かに、シンセや機材をずらっと並べればかっこいいし、モチベーションは上がるだろう。埃さえ溜まらなければ。埃。
ああ、あいつらときたら、ノブの、フェーダーの、鍵盤の、ボタンの、枚挙に暇がなく、重力に則って、降り積もる様。嗚呼ダセー。

え、ちょ待っ。。そんなのマメに掃除をすればいいだけじゃん。


掃除?!うむ。さうだ。掃除だ。さうしよう。さうあるべきだ。掃除をしようぞ。


という自己暗示を受けて昨年8月に筆者の音楽制作環境 studio D.E.L を大々的に断捨離+リフォーム改造したうえで、リフォーム後のぴかぴか状態を維持すべく試みが始まった。

実は改造の大きな目的のひとつとして、スタジオ用のモニタースピーカーの設置があった。
それまではヘッドフォン(SONY MDR-CD900ST)のみのモニター環境だった。

肝心のモニタースピーカーはドイツのADAM AUDIO T7V ニアフィールドモニターを選択。
T7Vは低域が39Hzからなのでモニターする位置によっては十分な低域の確認ができる。新開発とされる独自のツイーターが若干ハイ強めに感じられるが帯域は裏面にて調整ができる。このモニタースピーカーは小音量でもしっかりと定位の確認ができるのも良い。

運用としては、細かいところは900STヘッドフォン、全体の音像や各帯域の出音などはT7Vを使用する。




リフォームというくらいなので、モニタースピーカーを導入するにあたっては、防音と防振について対策する必要があった。
モニタースピーカーは専用のスタンドに設置し振動を抑え、さらにその足元には特殊な防振シートを敷いた。



そして、スタジオの音を外に出さないために部屋の壁全面には吸音材ウレタンを貼った。吸音材ウレタンは25cm正方形の大きさで表面に凹凸のあるもので全部で150個以上使用した。


加えて床には建築用資材の業務用遮音防振シートを敷いた。業務用なので1m×10mのロール状だった。重さが20Kgでスタジオまで運ぶのに難儀した。でもハサミで簡単に切れるので、部屋中の床に敷き詰めた。

窓には吸音材が貼れないので、カーテンを全て防音用のものに換えた。壁の吸音材と防音用カーテンの影響でかなりデッドな部屋鳴りになった。

音漏れについて。
スタジオでかなり大きな音を出しても部屋の外では遠くで鳴っていると感じるくらい。特に中高域の音漏れ具合はほぼ問題なし。ただし、キックやベースなどの低域は少し感じる。低い周波数は物質を伝搬し易いから難問。課題。



スタジオのリフォームは完成した。
この整った状態を日々の音楽制作環境として維持させてゆくために、筆者は決断した。
基本は掃除ぞ。その運用にあたって、揺るぎない掟を挙げる。
燃ゆるゴミの日(週二回)の朝、スタジオの隅々をガッツリと掃除するという決断だ。日本語の文法など捨ててしまえくらいの。
既に実施9か月目継続中。いまのところ埃一つない。



週2回のスタジオの掃除、がんばってます。
1行で済む話だ。



※この文章は2098年イギリス プリマス地方のタマートン湖の湖底から発見されたポリカーボネイト板に原始的なポラリ語の一種で書かれていた文字を現代語に訳したものです



2021/04/08

(No.2599): 2008年のdeweyはこちら




この写真は第1期dewey。もう13年前。代々木のノア・スタジオで練習後にロビーで撮ったもの。
代々木のノアがまだ改装前の狭い建物のとき。
第1期deweyでは筆者はドラム担当だった。たしかこのとき、円形脱毛症があったのでキャップをいつもかぶっていた。

そもそもdeweyは電子音楽と生ドラムを混ぜこぜする音楽をやりたいために始めたのだ。
しかし筆者のへたっぴーなドラムだと、せっかくのtairaさん楽曲の良さをスポイルてしまう展開となり、そもそも自分が思い描く音像に遠く及ばないことがわかり、この数年後筆者はスティックを折ったのだった。

今にして思えば、筆者の稚拙極まりないドラミングとも呼べないあんな不様な在り様をよく人前に晒していたと思う。
結局ドラムは9年少しやっただけである。
最初は2002年頃、仕事関係の仲間で作ったブルース・ソウル系バンドにドラムで加入。ドラムは独学でやっていたが、途中からWEB通信講座でドラムの基礎を学ぶ。

ブルース・ソウル系バンド内での会話ではテクノやらエレクトロニックやらの音楽は100パー無関心。あたりまえだけど。
もっぱら60年代70年代の洋楽カバーやGSのカバーを中心に活動していた。
バンドメンバーの話す内容がほとんどわからず、唯一JBだけは知っていた。

バンドメンバ「ボ・ディドリーのヘイ・ボ・ディドリーやろうよー」
エフオピ  「????何語だ?」

しかしこのバンド、筆者のドラムでよくライブできたよなと思う。特にギターの人はChar氏と共演したこともある名うてミュージシャン(当時)だし、やりにくかっただろうと思う。

ギター系バンドでのドラムは筆者の本位ではなく、やはりギャニュギャニュとした電子音塊の中での生ドラムという音像を求めるため、deweyを結成してドラムをやったのである。
しかし、現実はそうは問屋が卸さず冒頭へ戻る。


考えてみれば、筆者がdewey結成当時標榜していた「電子音楽と生ドラムを混ぜこぜする音楽」がdewey deltaとなって結実しているのだ。
ハッチャキさんの卓越したドラミングとtairaさんや筆者の電子音塊とが混ざった音像は、正しく筆者が当時思い描いていた光景である。
上の写真を見て、そんなことを思い出した噺。

人生とは面白いものね。


2021/04/03

(No.2598): ある鰻屋の謎

 「鰻の幇間」という落語がある。
超簡単なあらすじはこうだ。
幇間(太鼓持ち)が往来でお客を漁っていたら、浴衣掛けの若旦那と思しき男が声を掛けてきた。
どこかで会ったことがあるのだが思い出せない。思い出せないが、取り巻いてうなぎ屋でご馳走になることに。
この男、実は詐欺師であった。
幇間は結局この男に騙されてうなぎ屋の勘定はもとより、数人分のお土産を持ち帰られた上に自分が履いてきた下駄まで盗まれてしまうという噺。

この噺に出てくるうなぎ屋はひどく汚く且つぞんざいな店で、店自体も傾いているし客間もぼろぼろ、そして肝心のうなぎは3年噛んでもとろっとこないほどの硬さという不味さ。
お勘定をもらいにきたお店の賄いお姉さんにいろいろ文句をぶつける幇間。

「このうなぎどこで獲ったんだい、天井裏かなんかで獲ったんじゃねぇか」


筆者は鰻が好物だ。否、正しくは、「ある鰻屋のうな重」が好物なのである。
予てから鰻好きを公言して憚らない筆者において、西は浜名湖、東は成田参道までいわゆる名物と言われるような場所へ赴き鰻を食べ歩いてきたが、
結局”その鰻屋”を超える鰻にはまだお目にかかれていない。

どのお店もけっして不味いわけではなく、美味しいのは間違いがない。だが、”その鰻屋”と比べるとそれら名店ですら霞んでしまうほどだ。

大げさな物言いかもしれないが、”その鰻屋”の鰻ときたら、うなぎであって鰻でない、まったく別の食べ物であるという印象だ。
従来のいわゆるうな重の概念が変わる。

即ち、その鰻は歯が不要なほどに、溶ける!
ほくほく。
50年以上継ぎ足された絶品タレと焼き加減、鰻とご飯とのバランスが絶妙。完璧なまでの拵え。
とにかくほくほくと溶ける。
そして、量が多い。うな重上で概ね3枚乗ってる。たまに卵焼きも入っていたりする。成人男性でも完食すると腹ぱんぱんになる。
肝吸いも美味い。
自家製の香の物も美味い。
しかも、驚くことにほかの鰻屋さんよりもだいぶ安価である。



実は”その鰻屋”は築地の某有名老舗うなぎ店の暖簾分け店である。
老齢のおやじさんが若いころ修行されていたのだろう。お婆さんとご夫婦のみで営まれている。

器、箸袋、山椒の小袋、出前の時におぼんに被せている包み紙、に至るまでこの某有名老舗うなぎ店の屋号が印字されている。

ところが、この有名老舗うなぎ店のサイトに暖簾分け店として、”その鰻屋”は載っていない。(ほかの暖簾分け店は載っている)
上述通り、本家屋号の入った小物を使用できていることからして、オフィシャルだと思うのだが謎の一つなのだ。

もう一つの謎。
”その鰻屋”は冒頭の落語にあるようなひどく汚い店構えなのだ。
時代が付いた古さというそんな粋なものではなく、だいたい入り口の破れたひさしには「ラーメン」と書かれてある。
潰れてしまったラーメン屋にしか見えない店構えだ。そもそもどこをどうみても鰻屋には見えない。


実は、その廃ラーメン屋家屋は”その鰻屋”のイートイン店内給仕用として使用されていたようで、実際の調理は2軒先の自宅兼厨房で行われている。注文もそこに行く。

しかも、数年前からイートインはやめてしまって、現在は出前オンリーになってしまった。
上の写真は昨年の夏頃に撮ったもの。現在はこの店舗は使用されていないが、営業中の時とさほど見栄えは変わっていない。

リスペクト。



2021/03/30

(No.2597): 新しいカタチのライブ告知(その2)五月三日

 前回までのあらすじ

1967年か68年の「おはよう!こどもショー」に筆者は出演したことがある。通っていた幼稚園がテレビ局にお呼ばれして室内運動会的なことをやった。(だと思うが正確な経緯は知らない)
当時、テレビに出るという概念を持っておらず、遠足か何かで遊園地にでも遊びに来た感覚だったことを覚えている。

Wikipediaをみたら、「おはよう!こどもショー」は1969年頃まで生放送だったようだ。筆者の年代はまだ生放送だったのかもしれない。
当時一般家庭でテレビ放送を録画することなどできなかったから、そう言われてみれば同居していたお祖母ちゃんに、〇〇ちゃん(筆者の本名なまえ)自分をテレビで見られないねとか、言われたような気がする。

だからだろうか、テレビ局が出演中のスチール写真を何枚も撮ってくれて、それをあとで記念品として貰った。その写真はまだあったと思う。どこいったかな。
確か、大きなスポンジの玉を転がす競技みたいなのをやった。目の粗いスポンジ片とかスポンジ臭もなんとなく覚えている。

放送が終わって、スタジオの出入り口のところで、テレビ局からお弁当のいなり寿司をもらって園児達や母親達と食べた。天井がものすごく高くて薄暗かったのを覚えている。

そういえばロバ君がキンキン(愛川欽也さん)だったことはもう少し大きくなってから知った。


あと幼稚園の記憶といえば、ブルーシャトウの替え歌だ。幼稚園の送迎バスの中で、大合唱した覚えがある。

もりとんかつ いずみにんにく かーこんにゃく まれてんぷら
しずかにんじん ねむーるんぺん ぶるーぶるーぶるうしゃとー

「るんぺん」という単語が出てくるところが時代だ。
そんなことしてると大人になってルンペンになっちゃうよ、と常套句で用いられていた時代。
否!ルンペン上等ぉ~と見得を切った子供時代から正しく一向に上向かない筆者が所属するdewey delta(デューイデルタ)というテクノデリック的生ドラムアンド生歌唱付きエレクトロニック音塊楽団のライブはこちら。あれとこれとそれも。
詳細しばしお待ちくらさい。

2021年5月3日(月曜祝)
Wild Side Tokyo



2021/03/26

(No.2596): 寿司屋(回らない)

 筆者は中学生の頃、深夜放送にハマっていた。ニッポン放送のオールナイトニッポン。
中2の頃が一番聴いていた。

当時パーソナリティはこんな塩梅だった。特定の曜日ではなくおおむね全部聴いていた。
(1部のみ)
月・くり万太郎
火・所ジョージ
水・タモリ
木・自切俳人
金・つボイノリオ
土・笑福亭鶴光

平日は主にカセットにタイマー録音していた。ほぼ毎日聴いていた。そのカセットテープはまだ少し残っている。44年前のカセットテープ!

自切俳人が北山修さんと知ったのはだいぶ後になってからだった。
当時タモリさんはエロ変態な話が多くて変態お兄さんという印象で筆者は好感をもっていた。所ジョージさんは当時ほぼ無名で変わった歌を作ってアコギ弾きながら歌ってるお兄さんだった。

オールナイトニッポンを聴いていくうちに所ジョージさんの曲が気に入って、結局ファーストアルバムを皮切りにその後通算LPアルバム4、5枚は買ったと思う。
大人になってから(テクノ音楽ばりばりやってるのに)CDで買ったり、iTunesで買い直したほどに今も好きだ。

そんな所ジョージさんの「寿司屋」という曲がある。
「~ 寿司屋でコーヒーが飲めるわけもなく ~」というくだりがあるが、今なら、くら寿司とかで飲めるよなーとか思ったり。

と、ここまでが枕。


筆者はこの年齢(アラカン)になっても回らない寿司屋(カウンターのみの店)が怖い。というか、ほぼ入ったことが、ぬ。
思い返せば、20歳代のときに住んでいたアパートの大家さんに誘われて(おごりで)近所の寿司屋に入ったのが最後かもしれない。いちおうカウンターのみのお店で、口頭注文の回らない寿司屋だった。
でも、このお店はご主人がだらしなくて、なんとタバコを吸いながら寿司を握るという暴挙の店なのだ。納豆巻きを注文(回らない店で納豆巻き!)したら、コンビニまで納豆買ってきます店番頼みます。って店だったから食べる方もびろびろーーんとしてればよかった。料金も回転寿司並みだった。

こういう店は好きだ。


上述のお店は特殊案件として、一般的なカウンターだけの寿司屋でも「にぎり上」とか「にぎり松」とかのセットになってるものをぱぱっと注文すれば、対応できるんじゃないの?

否、回らない寿司屋の何が怖いって、カウンターで職人とのサシの掛け合いが怖い。

今日も冷えますねー とか
今日のおすすめのネタは何 とか
とりあえずビール とか

筆者はいわゆる「大人の」、「ちゃんとした常識ある大人の」 「食」のそれ というこのシチュエーションにおける職人さんとのコミュニケーションが、もうどうにもこうにも居たたまれず怖い。
結局寿司屋に限らないのだが、「ちゃんとした」美味しそうなお店(お高そうな)は敷居が高くて怖いのだ。

若いころならいざ知らず、もう人生も半分以上経験した人物が、何を怖がっているのだと思われるかもしれないが、歳を重ねてもどうにもならないことは多いのだ。楽しい。

ちなみに、寿司屋の詞の最後にある
「救いのミコは御母の胸に倒れ切っていた」が
「救いのミコは三鷹の駅で倒れ切っていた」というバージョンもあることを付け加えて終りにしよう。ではまた。




2021/03/23

(No.2595): 床屋を訪なう。シリーズ (あとがき)

拙屑ブログのオツな床屋さんシリーズをまとめた記事「(No.2233): 床屋を訪なう。シリーズ」。

このシリーズに登場していた「昭和50年代で時間が止まった床屋さん」は残念ながら廃業されてしまったようだ。
たしか2年ほど前、お店の前を通ったらドアに張り紙。暫くお休みしますと書かれてあったのだが、その後お店は開かず、今ではシャッターが降りてしまっている。

この床屋さんの以前に通っていた老夫婦の経営する「生活用品が散乱する床屋さん」は、今でも商いをしている。
たまには行きたいのだが、しかし筆者は数年前からこのようなオツな床屋さんに行かなくなってしまった。

筆者はもともと美容院が苦手であり、こ洒落た予約必須床屋も嫌いなのだ。だから、上述のようないわゆる町の昔ながらの庶民床屋さんが好きだった。
しかしここ数年は無表情でシンプルな1000円床屋をよく利用している。予約も不要だし、日時を工夫すれば待つこともほとんどない。それに筆者のようなちょっと変な髪形(ソフトモヒカン)も対応してくれるのでたいへん重宝している。
味もそっけもないチェーン店の場合、理容師さんの出入りが激しいので、ソフトモヒカンをお願いしても毎回髪形が異なるのも気に入っている。


ちなみになぜ美容院が苦手かというと、予約しなければならないうえに、仰向け洗髪の間が持てないからだ。カットだけならまだいいが。

そうそうカットで思い出した。
二十歳くらいのころ気取って初めて美容院へ行ったときの話なんだけどさー。

受付で「本日はどのようにいたしますか」と聞かれたんで、今まで床屋しか行ったことがなかった青年エフオピは、
え?ビヨウインって受付で聞くのか?と思いつつ、「あ、はい、ここを短く刈り上げてください。もみあげはテクノカットで、ここはツンツンに立てて云々かんぬん」とさんざん希望を言ったらさ、
受付の女性美容師さんが半笑いで「カットでございますね」と言ったのよ。

そうか、美容院って、なんか「カット」だとか「カラー」「パーマ」とかメニュー化されてるんだっけ! どわちゃー恥ずかしいー!ってなって、
「・・はいカットで・・」ってぼぞっと言った後、待合で待ってる時のほかの客の視線の居たたまれなさったら半端なかったよー って話が鉄板でした。


2021/03/21

(No.2594): 一番嫌なのは自己紹介で名前を言う場面

先日のNHKドラマを観て、まったく同じ!そうそう!あるある!と思った。 

子供の頃から一番嫌だったのは自己紹介で名前を言う場面だった。
なぜなら筆者も吃音者だからだ。

特に苗字を言う時は”難発”になる。難発とは最初の一音が詰まって「きっ 。。きっ、きっ、きっ、、、」となる吃音である。ひどいときには息もできない。
吃音では特定の行(あ行か行などの行のこと)で出やすいという傾向があるが筆者も同様で出やすい行とほとんど出ない行がある。
一般の人がよく言うことに、どもってしまうのは緊張しているからだ、あがっているからだと指摘する人もいるが、それは大きな誤解である。吃音は緊張とは直接関係はない。
よく漫画などで緊張してるシーンで「な、な、なんということ!」みたいな台詞があったりするが、これは吃音ではない。あと、「噛む」という表現も吃音ではない。


子供の頃は喋るとほとんどどもっていたが、大人になるに従ってどもりにくくなったが自分の苗字や特定の行は今でもどもる。
ややこしいのが、大人になるとどもる言葉を別の言葉に言い換えて会話するので側から見るとそんなふうには見えない。
それと大人になると素の自分を隠して演技するようになる。演技中はあまりどもらないのだ。
あるいはリズムに乗ってしゃべったり、ある特定の言葉のあとに言うとどもりにくくなる、など喋る時に様々な工夫をすることで、吃音を遠ざけるようにしていた。

特に電話が苦手だ。
仕事の電話を掛ける場合、会社名や名前を言わなければならない。別な言葉では言い換えできない。
なるべくその場面を回避していたが仕事ではそうもいかず難発をかまし、発声までに長い「間」があったり、電話口で何か破裂音が断続的にしてるから 相手からはイタ電??「??もしもし?どちらさまですか?」とか何遍も言われるし、その電話を聞いている周りの連中の息を呑むさまがわかる。マジで血の気が引くという経験を何度もした。
あるとき、ある言葉を言った後に続けたらどもらなかった。この体験が脳に記録されたのか以降はその言葉を言った後だと概ねどもらなくなった。
ただし言葉のリズムのタイミングを外すとやばいけどね。へへーん

高校1年のとき、体育柔道の最初の時間、先生から、「おまえ、これ苗字なんて読むの?」と聞かれ、これはもう言うしかないので盛大にどもりながら言った。そのとき先生は無反応だったが、周りの生徒がざわついていた。
YMO増殖に収録されているスネークマンショーの「KDD」のギャグでは友達からエフオピみたいだなーとからかわれた。

しかしなぜか吃音であまり悲観したことはなく、中学の時はFMミニラジオごっこでどもりながら喋ってたし、高校生のときは喋ることがメインのアマチュア無線の資格も取ったし、「そのうちなんとかなるだろう」(植木等さんの曲)などとあまり真剣に悩んだことはなかった。
それは今も続いていて、筆者は今は勝手にこれも個性なんだと思っている。



2021/03/18

(No.2593): 提唱会と呼んでいた頃

 古い拙屑ブログをつらつらと眺めていたら、自分で書いたものなのに面白れぇなぁ、と時間も忘れて読み耽ってしまった。
そこで見つけた2013年12月の記事、deweyライブのフライヤー画像やそれに乗じて展開された雑駁な物語が楽しい。しかも、物語はtairaさん側の世界とエフオピ側世界が繋がっているように描かれている。

(No.2104): 晃一郎と吉之助(二月三日提唱会告知)




tairaさんの物語は程よい文学的な表現や構成力の高い文章、リアリティを伴った台詞で創られており、とても読み応えのある作品だ。映画の一遍を観ているように感じる。
一方筆者の方は、一部屋の中だけの物語という体で設定を狭くしてボロを出さないようにした(出てるけど)「晃一郎と吉之助」シリーズである。

おそらく最初はtairaさんがこの時代感でお話を創ったのが切掛けだったと思う。それに筆者が便乗した格好だ。
舞台は別な世界の日本の大正から昭和一桁時代を模している。ただし、筆者側にはMacBookやAbletonLiveは存在している。いわゆるスチームパンク概念の世界観。

元官吏の晃一郎(フルネームは裏神晃一郎)は上野切通停留所傍の木造二階家の二階に下宿している設定。確か階下は道具屋だった。
近所に住むまだ学生(だがほとんど通学しておらず)である吉之助は晃一郎を兄貴と慕っており、しょっちゅう部屋に出入りしている。
彼らは江戸弁を話す。これは筆者が敬愛している古今亭志ん朝師匠の粋な江戸弁が好きだからだ。
どの巻も話の筋は、晃一郎と吉之助によるdeweyライブのどえらい遠まわしな番宣の体であるが、あまりの素っ頓狂加減で何の話だかわからないようになっている。

加えて、”通りに面した一尺ほどの小窓”という文言や、季節感を表す表現をどこかに入れるというルールを自分なりに作っていた。


そんな自己満足型の典型を地でゆくこれら執筆活動(または戯言)は、今思うとdeweyのプロモーションのつもりだった。
当時deweyのライブは集客がほぼゼロに近かった。だからこうした駄文でも、ひょっとしたら誰かの目にとまってくれるのではないかと、期待をしていたのだ。
まぁ目にとまったところで、こんな物語を書いている奴らの音楽を聴こうと思わないだろうし、ましてやライブに足を運ぼうなどと思う人はいなかっただろう。


おまけ

過去ブログを漁ってたら、ハッチャキさんと初めてお会いし共演したときの記事を見つけた。まさかこの5年後に同じバンドメンバーになるとは夢にも思わなかった。

(No.2300): dewey ライブ後記(at LastWaltz)


2021/03/16

(No.2592): アニメ 漫画 本棚

先日、dewey deltaの打ち合わせのとき、どこからかアニメの話題になった。
筆者はアニメはまったくの不勉強で1ミリも話の内容が理解できなかった。
tairaさんはもとよりマネージャ氏、筆者と年代の近いハッチャキさんも普通に盛り上がっていて、話の内容があまりのわからなさに笑ってしまったほどだ。

マネージャ氏のツイートによると「エヴァンゲリオン」「ジョジョの奇妙な冒険」「ガンダム」、「宇宙戦艦ヤマト」などの話題であった。
「エヴァンゲリオン」や「ジョジョの奇妙な冒険」はまったく知らない。
辛うじて「機動戦士ガンダム」はほんの少しテレビで見たことはあるが、正直ストーリーはあまりわからない。

しかし「宇宙戦艦ヤマト」は松本零士さんの漫画単行本を持ってたし好きだった。アニメの方は70年代にやってたので観ていたと思うがあまり記憶なし。
80年代になってスネークマンショーの畠山桃内(伊武雅刀)さんがデスラー総統の声だったことを知る。


考えてみれば、子供のころからアニメに夢中になったことはなかった。もちろん観てはいたが、筆者はアニメよりも主に円谷プロ、及び東宝、大映の怪獣ばかりが好きな子供だった。

筆者はアニメよりも漫画かもしれない。
しかし漫画といっても、いわゆる少年ジャンプ等の週刊詩は読まなかった。でも単行本は買ってた。

小学時代は望月三起也さん「ワイルド7」「最前線」、水木しげるさん「悪魔くん」「ゲゲゲの鬼太郎」、とりいかずよしさん「トイレット博士」などを集めてた。
中学生になると、近所の大学生のお兄ちゃんの影響で山上たつひこさん「喜劇新思想体系」を知る。
この漫画は男子中学生にとって異常性(何をして異常かは本人次第)を伴う屈折した性教育のバイブルだった。
「喜劇新思想体系」は筆者の思春期の人格形成に多大な影響を及ぼしたことは間違いないだろう。

後に「喜劇新思想体系」から過激なエログロを消し、小学生向けに内容を薄めた「がきデカ」がそれこそアニメにまでなって大ヒットを記録したが、筆者は「喜劇新思想体系」の方が何万倍も好きだった。


大学時代以降は、サブカルチャーに浸った。
「喜劇新思想体系」もその多少一派なので、中学時代からそのケがあったのだろう。
「ガロ」誌の潮流に筆者は20歳代前半に染まる。「ガロ」の全盛期は筆者よりももう少し先輩方々がリアルタイムだろうか。

特につげ義春さんの作品には多大な影響を受ける。ご本人は意図されずに漫画表現を超えた表現という概念を創出された方。
当時(80年代中頃)売られていたつげ義春さんの本はほぼすべて購入したほどだ。
「無能の人」「石を売る」の初版の頃だったが、60年代70年代の昔の作品が収録され単行本化されていて、貸本漫画時代の作品がコンパイルされていた本もあった。漫画以外にも旅行記や日記などの作品も読んだ。
これらは今でも大事な所蔵本として本棚にしまってある。



泉昌之(久住昌之さんと泉晴紀さん)のデビュー作「夜行」もデビュー翌年頃になってからガロ誌で読んだ口だ。
いっぺんで魅了され、単行本「かっこいいスキヤキ」を買ったのは言うまでもない。以降、現在に至るまで泉昌之、久住昌之さん、QBB関連本はほぼ揃えている。
作品の端々に、あ、僕とおんなじこと思ってた人っていたんだと思わせるシーンが多い。


そうそう「ガロ」といえば蛭子能収さんの不条理漫画も好きだった。「私は何も考えない」は名作。
そんな筆者の漫画本棚の図を載せておく。

あれ、えっと、何の話だったっけ。










2021/03/14

(No.2591): 教習所(四輪)の思い出と街道版嗜好選考会

自動車の運転免許を取得したのはもう40年前になる。
高校3年の3月、大学合格してその足で実家近くの教習所に通った。

教習車は日産セドリックでギアは前進3速のコラムシフトだった。筆者の世代はコラムシフト教習車の最後の世代ではないだろうか。
当時(1981年)でさえタクシーではまだよく見かけたが、非商用市販車でコラムシフトはほぼなかったように思う。

当時の自動車教習所の教官は男性も女性も怖かった。棒切れを持ってて、クラッチ操作ができないと容赦なく左ももを叩く。
こんなこともあった。
運転席に座ってから上着のジャンパーを脱ぎ後部座席に置いたら、パンチパーマ男性教官に激高された。
「てめぇ何やってんだ!車から降りて脱げ!10年早えんだよクソガキ!」
クソガキとは多少盛ってるが、しかし本当に10年早えんだよって言われた。概ねこんな感じ。本当よく怒鳴られた。半泣き状態で教習してた。今なら信じられない。
もう40年も経っているから、ジャンパー脱いでも怒られないだろうか。


免許取得してすぐ、当時実家の自動車(トヨタ チェイサー(オートマ))を借りて
友人と初めて車で新宿まで遊びに行った。
夜で雨も降っており、青梅街道の交通量にビビりながら、さらに雨で車線がよく見えなくて、手に汗べっとりかいて緊張して運転した記憶がある。
新宿大ガード下を走ったときは、おおーこの道を自分で運転しておるぞと感動したものだった。

この1981年の初夏に自分のクルマを買い、それ以降2021年現在までに15台を乗り継いだ。
初心者マーク付けてるクルマを見ると、ああ僕も最初は緊張してたよなぁと思いだされるのだった。



ところで、長年クルマで走っていると「道」自体に好き嫌いが出てくる。(筆者だけだろうけど)
好き嫌いというよりはその「道」が面白いか面白くないかであろうか。
面白いかどうかは、「道」の成り立ちはもとより走っている時のシチュエーションの記憶による影響が大きい。

大学時代から20代前半にかけての行われたアヴァンギャルドな温泉鉱泉旅で培われた嗜好により、街道版筆者の好きな道が以下の通り選考される。( )内は好きな区間
なお選考理由の文章化は困難であるため記載できない。

・国道20号 甲州街道(八王子から塩尻)
・五日市街道 (高円寺から五日市まで全線)
・青梅街道(青梅から塩山)
・国道6号 水戸街道(茨城県内)
・国道349号(水戸から福島の霊山付近まで。以降はまだ走ったことがない。現在は幅員拡張工事等で道幅が広くなったり、バイパス化され旧道が消えたり車線が増えたりしており、当時の面影は少なくなってきてしまっている)



2021/02/03

(No.2590): 38年前の旅館での不思議な体験

今から38年程前、たぶん1983年だと思う。季節は3月下旬。
筆者は大学3年の終わりだった。当時はテクノ音楽制作に没頭しつつ、同時に寂れた湯治場、温泉や鉱泉に足しげく通っていた時期だ。
そのあたりの話は「(No.2332): 「温泉鉱泉と電子音楽の効能」のその前」や 「(No.2583): エフオピ 温泉鉱泉奇譚(その一)」に詳しいので是非ご一読願いたい。

それは友人Tと何度か訪れたF県の湯治場への旅行だった。確かこの時は360ccの軽自動車ではなく、筆者実家のクルマ、トヨタスプリンターで行ったと記憶している。
F県方面へは毎回そうなのだが、夜22時頃に出発する。都内を抜け国道6号から千葉県、利根川を越えて取手駅の手前を右折し、龍ヶ崎から北浦へ抜けるディープな細い道を好んで走った。途中K神社に寄るのも作法の一つだった。
51号から水戸市街を抜けるくらいに朝7時頃だ。そして我々の大リスペクト国道の一つ、349号でF県まで北上する。高萩あたりまで51号で行って内陸へ向かう道で349へ抜けるコースも編み出した。どちらにせよ概ね15時過ぎには到着する。

Y温泉は三軒の旅館が片寄せて建つ古くからの湯治場だ。三軒とも訪ねたことはあるが、我々は概ねI旅館を定宿にしていた。
I旅館は木造二階建。建物は古いが継ぎ足しで建てられているので昭和30年代から古くは戦前の古い部屋もあったのではないだろうか。温泉としては少なくとも江戸時代からある。
幕末に存したある御仁もI旅館に逗留したとのこと。
風呂場は渡り廊下で別棟にある。Y温泉は源泉36度くらいの男女混浴の温泉(38年前)。源泉人肌の温いお湯にそのまま長時間入るのがオツだ。上がり湯として加熱しているお湯もあるがあまり入ったことはなかった。

その日は15時過ぎに着いた。一階か二階か忘れてしまったが、継ぎ足されていない古い六畳の部屋だった。炬燵が暖かい。我々は疲れたー落ち着くーと言いながら炬燵にもぐり込んだ。夜通し走っているので疲れもピークだ。それぞれが炬燵に入ってごろんと横になりそのうち眠ってしまった。

どれくらい時間が経ったのか薄ぼんやりと目を開けた。外は真っ暗だった。寝た時はまだ明るかったので部屋の明かりも点けていない。
筆者の左側に友人Tが横になっている。二人しかいないはずなのに、炬燵にもう一人いるのだ。筆者の右側に。
筆者はその人に迷惑になるかもしれないからと足が当たらないように引っ込めて丸まった。これなら友人Tにも右側の人にも足が当たらなくて安心だ。そう思った。怖さは全くなかった。そのまままた寝てしまった。

二人が起きたのは18時を回っていただろうか。
起きたー?腹減ったねーと言いながら、「あ、そうそう、さっき起きた時もう一人誰か炬燵にいたんだよ!」と先ほどのことを話した。
そうすると友人Tの顔色がみるみる変わって、「僕ももう一人いるって思った!同じく当たらないように足を引っ込めてたよ。」と言うではないか。
え?まじで?ど、どこにいた?と聞いたら、筆者の右側、つまり友人Tの前にいたと。同じ場所だ。

その晩、布団を敷いて寝るとき、二人ともビビってなかなか寝付けなかったのを覚えている。
しかしそのあとは何もなかった。

2021/01/31

(No.2589): studioD.E.L 近況

正直、ここ数年電子音楽系楽器で欲しいものは特になかった。Moog Sub PhattyとAbleton Live10ネイティブのヴァーチュアル楽器だけで、筆者の創作環境は何も問題は生じなかった。
もちろん魅力的な製品がなかったわけではないが、今の環境で自分なりの創作環境充足感があったからだ。新しい機材よりも新しく生み出す電子音楽に注力できる意思が勝っていた。
ところが昨年になって立て続けに筆者の心を揺さぶるプロダクトがお目見えした。


昨年発売されたSEQUENTIAL Prophet-5 (Rev4)には驚いた。筆者のように1980年前後にリアルタイムでテクノ渦中にいた年代には特別な思いがあるProphet-5の新品のホンモノが登場したのだから。
当時170万円もしたが、Rev4は50万円。音だとか機能云々とかライブでの使用だとかそういう現実的な次元ではなく、死ぬまでには所持しないとならない機材の一つだという認識だ。こんな想いを持っているということは当時の呪縛からまだ抜け出せないのだろう。でもそれがいいんじゃないか。
とはいえすぐにぽんと買える金額ではないので、遠くから眺めるだけにしておくことができるのでまだ冷静だ。
それは創作のための自助ではなく、単純な物欲の発生に他ならなかった。

もう一つ昨年から気になっていたModal Electronics社のCOBALT8が年が明けてようやく日本でも発売された。
こちらは現在の制作環境への投入とdewey deltaのライブ使用を前提とした、完全なる実務レベル機材だ。ARGON8というウェイヴテーブルシンセが既発であるが、こちらは今一つ筆者の琴線を揺らせなかった。
COBALT8はヴァーチュアルアナログシンセというカテゴリだという。所持しているCLAVIA Nord Lead2と同じだ。
ウェイヴテーブルの何たるかを知らないので偉そうなことは言えないが、筆者はやはりオシレータといえばサイン波や三角波や矩形波やパルス波といったアナログシンセ由来の発振が好きだ。
昨年末から日本発売いつなんだろう発売したら速攻で買うんだ俺、と日々ネットを注視していたのに、tairaさんのツイートを見て初めてそれを知り、うおぉー見逃してた!と叫びつつ数分ののち発注した。
COBALT8のインプレッション的な話はまだ書けるほど触っていない。が、筆者の標榜するような「音像」「機能」は遥かに想像を上回っていた。特にオシレータの自由度が高く、最近のシンセに多い波形種の切り替えがバリアブルになっており、
うまく解説できないがオシレータパラメータ(現在の波形を微妙に弄る機能?とディチューンのような機能?)が組み合わせられると、今まで聴いたことがないような音を作ることができる(と思う)。残念ながら筆者はそこまでのスキルなし。
パネル前面にも数多くのノブやエンコーダーが配置されているが、全ての機能にアクセスできないため、Shiftボタンや各種ボタンの組み合わせで深い階層まで降りてパラメータ操作する必要がある。
覚えることが多く最近物覚えが悪い筆者にとっては鍛錬が必要だ。稚拙な鍵盤演奏も含めて。


また、制作環境も含めてライブでの使用を考慮すると入力数の確保が急務であることがわかり、この先わたくしはどうすればいいでしょうとtairaさんへ相談すると多チャンネル入力マイクプリでADAT出力付きならUNIVERSAL AUDIO APOLLO TWIN に挿せるということを教えてもらい、なるほどこれは今まで気付かなかったとBEHRINGER ADA8200をすぐに導入した。
こいつがことのほか良い製品で、なんで今まで導入しなかったのかと後悔するほどだ。
これがあればハッチャキさんドラムのパラ録音もできる。

現場からは以上です。

2021/01/16

(No.2588): 初めてH沢さんに会った時の話(改題アンド加筆修正)

30年ほど前、東京N区の某商業レコーディングスタジオへ見学お呼ばれでお伺いしたときの話し。

当時乗っていたローバーミニでスタジオの駐車場へ乗りつけると、鎮Zさんのローバーミニの横にH沢さんのシトロエンBXが停まっていた。(当時鎮Zさんも筆者と同じローバーミニに乗っていた)

スタジオの受付で当時のH沢さんの事務所名を告げると、○スタジオですと部屋を案内された。
地下のそのスタジオの入り口は自動ドアになっており、ビューンと開くとすぐそこはコントロールルームだった。

1億円以上もする(本当かどうか不明)というSSLの大型ミキシングコンソールの前に鎮Zさんが座っていて、後ろにあるソファにはH沢さんが座って週刊漫画雑誌を読んでいた。
コントロールルームにはそのほかに事務所の社長Kさん、レコード会社ディレクターTさん、あとMTR操作のアシスタントの方、それとH沢さん周辺の若いミュージシャン?と思しき方がいらっしゃったと記憶している。

鎮Zさんが筆者をH沢さんに紹介したら「あーあんたですか、打ち込み野郎は」と挨拶された。筆者は「うひゃへへー」と頭を垂れた。
また、こちらは部外者なのに事務所のKさんやディレクターTさんは大変親切だった。
「今日H沢さん歌う予定だったんですけど、スケジュールの都合でミックスダウンなんですよー残念でしたよね」とか気を遣って頂いたり。

あるアニメ映画のサウンドトラック制作でその日は数曲のミックスダウンだった。
ミックスを変えて聴き比べるというのをけっこう長くやってたような気がする。
特に印象に残っているのは、H沢さんが「ディメンジョンを使っているのは知っている」と紙に書いたメモを鎮Zさんにそっと渡しているところ。
しかもそのメモには 怒った人物の顔が漫画っぽく描かれていた。
H沢さんが鎮Zさんにエフェクター使わずに広がりのある音像を希望していたらしいのだが、鎮ZさんがこっそりRoland Dimensionを通していたことがバレたのだ。


当時の音楽制作現場はデジタルになってはいたが、MTRなのでテープの架け替えとか巻き戻しがあった。その時間がけっこう掛かっていた印象。昨今のDAWだとロケーター移動は瞬時だ。
しかも専任のアシスタントの方がその操作をやる。録音時のパンチインパンチアウトもやるので緊張するという。
当時筆者の環境も8TRのMTRだった。当然アナログだけど。

ご飯食べましょうということになり、全員がロビーのような休憩ルームのような場所に移動。
丼ぶり系のてんやものを取るという。筆者は実はここに来る前に食べてしまっていたのでご辞退した。
皆さんカツ丼を頼むがH沢さんは卵丼だったのは覚えている。卵丼の卵抜きだったのかも?


そういえばトイレ(男性用小)がすこぶる汚かった。おしゃれなレコーディングスタジオなのにーって思った。