2015/06/09

(No.2350): 遠巒の廻廊(十三)


直近バックナンバー
遠巒の廻廊(十一)
遠巒の廻廊(十ニ)


----
目が覚めるといつもの格子模様の天井が見える。障子からはうっすらとした外の明かり。見慣れたこの部屋の天井。ここへ来て間もない頃は、朝起きるとどこにいるのか混乱したが、今ではこんなにのんびりとした朝を繰り返している。日の出とともに目覚めるという生活は意外と健やかさを与えてくれる。そもそもわたしがここへ来てどれくらい経ったのか、最近はあまり思い出せなくなっている。

ここの暮らしは暦にあまり執着しない。それだからここに来て何日目とか今日は何曜日かなどといった習慣も、いつしかどうでもよくなって忘れてしまった。
藤助によれば役人などの勤め人以外はその日暮らしが多いらしい。商い人はそれでも季節の揃え物や慶事などで暦も必要だが、お職人などは宵越しの銭を持たない気質が多いと聞く。まるで落語のようだ。
実際わたしは180年前の東京、いや江戸にいるのだから、落語の世界を地で行っているのは間違いはない。たしか今の年号は天保だと聞いた。こんなことならもう少し歴史を勉強しておけばよかった。未来に起こることが分かっているなら辻説法預言者にでもなればそれで喰っていけそうだ。しかし天保という時代に何があったか、残念ながら知らない。

待てよ、天保では思い出せないが、明治維新は確か1868年とかそのあたりだった覚えがある。180年前ということは、今はたぶん1834か5年頃だろう。するとあと30年そこそこで明治維新ということになる。こいつはすごい予言になる。そう思うとふとんの中でわたしは変にうきうきした。



カラカラと戸を開ける音がして、いつものようにお松が朝餉の支度に来たようだ。わたしは起き上がって布団を部屋の隅にきちんと畳んだあと、顔を洗いがてら台所を覗いた。
「おはよう」と声を掛けるとお松は「おはようございます」とこちらを向いて丁寧にお時儀をする。この時代も、”おはよう”は”おはよう”なんだと気付いたのはだいぶ経ってからだった。
お松とは挨拶程度でなるべく口はきかないようにと藤助に言われている。彼女にはわたしのことは二本差しだと教えているらしい。会話から変に不審をもたれてもまずいという。それにしたってこんな侍はいないだろうとは思うが。藤助はわたしのことを南蛮帰りのどこそこの藩士とでも話しているのだろうか。

朝餉を済ませるととたんに暇になる。外に出るときは必ず藤助を伴わなければならないと決められている。今日のように藤助がいないとなると一日この屋敷の中に居なくてはならない。雨ならまだしも、今日みたいな気持ちの良い天気では、外に出てこの時代を見物したい。できることと言えば、こうして縁側に座って茶などをすすり庭のキンメツゲを眺め、僅かに聞こえる外の雑踏に耳を澄ますことくらいか。

わたしをこの時代に飛ばした何者かが連絡を寄こすまで何をするでもなくここに居なくてはならない。わたしをこの時代に飛ばした目的もわからない。聞きたいことは山ほどもあるがどうすることもできない以上今はおとなしくしている他に手はない。


と、裏庭の蔵の方からバチンと大きな音がした。驚いて思わず腰を浮かした。

「え、何?何の音?」

この時代にはない電気がショートしたような音だ。恐る恐る裏の蔵を見に行く。
特に変わったことはなさそうだ。扉も閉まっている。煙のたぐいも出ていない。戻ろうとしたときだった。ガキンという音とともに蔵の観音扉が静かに開き始めた。
そういえば藤助からこの扉は事があるときだけ勝手に閉まったり開いたりすると聞いていた。自動ドアだろうと思っていたが、確かにそのようだ。わたしは何が出てくるのかと扉の開いた暗い蔵の中を戦々恐々と見詰めた。

「やぁ、お元気そうですね」

ポロシャツにチノパンという恰好の初老の男が蔵の中からひょいと顔を覗かせた。この時代にあって場違いな服装だ。この顔、この声、聞き覚えがある。

「あ、あんた、す、菅井さん?」

上ずった声で問うと、

「お久しぶりです。いや、それほどでもないかな。あちこち飛んでいたものですから、それこそ時間の感覚があまり掴めません。困った役回りですよ、あはは」

と言って菅井は笑った。
これまでのことが走馬灯のように頭を巡り、もう言葉にならなかった。

「あなたそのお召し物お似合いですよ、やぁやはり自分のいた時代は落ち着きます」
「ちょ、あんた、菅井さん、いったいこれは何なんですか、わたしをなんでこの時代に、」

もどかしくうまく言葉が出ない。

「畳が久しぶりなもんで、ちょいとあがりますよ、茶でいつふくしたいですねぇ」

そう言うと菅井はさっさと奥の広間へ歩いて行ってしまった。わたしは慌てて後を追った。

お松が帰ってしまったのでわたしが茶の支度をする。この時代は庶民でもお茶が広まって久しいらしく、といっても煎茶の類だが、淹れ方は現在と変わらずに急須もある。余談だが玉露はちょうどこの時代に山本何某が考案したのだという。

庭に面した二十畳の広間に座り菅井と向かい合う。ひとしきり茶をすすると菅井は話し出した。

「いろいろとご無礼の段は百も承知なのですが、あたしも役目の上のことでしてね、なにとぞご容赦のほどを願います。ははは、この時代に戻ると話し方も地が出てしまいますな。いやぁそれにしても庭のキンメツゲが満開ですなぁ。あたしはこの庭木が好きでねぇ。実はね、これを植えたのはあたしなんですよ」

梅雨間近のこの季節はキンメツゲの開花と重なっているらしい。庭には奇麗に刈り込まれたキンメツゲに花が一面に咲き揃っており、白い淡雪の花が緑に映えている。

「元の時代に帰してくれるんでしょうね、菅井さん」
「それはあたしにはなんともお答えのしようがありませんが。。」
「そんな無責任な、どういうことなんです、あなたにその役目とやらを与えている誰かに話せば戻してもらえるんですよね。だいたい一体何の目的でわたしをこの時代に送ったのです」
「目的はあたしにもよくわかりません。が、ひとつ言えるのはあなたが彼らの工作の邪魔をしたからではないかと思います」
「彼ら?それがあなたにその役目とやらを与えている連中ですか」
「はい。詳しくはお話できませんが」

話とは裏腹に皐月晦日の心地よい風が庭を流れている。そよ風を顔に受けながらも、わたしは言い募った。

「工作を邪魔したといいますが、そんな覚えは微塵もありませんよ」
「はい、そうだと思います。それは、未来の話ですから」
「未来?」
「おそらく、あなたが暮らしていた2013年よりも未来の出来事のはずです」
「え?まだ起きてもいないことを阻止するために、わたしを過去へ飛ばしたってことですか。。」

わたしは驚いて二の句を継げなかった。

「あたしの知る限り彼らは何千年もいや何万年も昔からそういうことを担っているようです。まぁ彼らの言い分では「修復」と呼んでいるようですが。。。あたしがお教えできるのはここまでです。申し訳ありません」

さて、と言って菅井は立ち上がると庭に下りて行った。腰にぶら下がっているチェーンを手繰り寄せ、先端の十得ナイフのような器具を手に取ると、花のあるキンメツゲの枝を何本か切って、それを持って縁側に上がってきた。持ってきたキンメツゲの枝を纏めて束にしてから器用にくるくると紐で結んだ。

「これ、持っていきますね、本当はこっちのモノを時侯機で持ち出しちゃだめなんですがね」

菅井は年甲斐もなく片目をつぶってみせ、すたすたと裏の蔵の方へ向かった。急いで後を追う。蔵の前で菅井は待っていた。

「菅井さん、もう行ってしまうんですか、わ、わたしも連れて行ってください」
「残念ですが、それはできません。彼らからの指示を待ってください。実はあたしはこれをあなたに預けるためにここへ来たのです」

そう言って菅井は、蔵の中から四角い立方体の形をしたものを持ってきた。一抱えもあるケースのようだ。

「なんです、それは」

菅井はケースを下に置いて、蓋を開けた。型抜きの中に何やら硬い本のようなものが収まっている。灰色、茶褐色、黒いいくつかの染みもみえる。

「このケースの中にはオルドビス紀の遺物が入っています。ただ発見されるのはこの時代から170年も経ったイギリス・ウェールズ地方のマズレーという古城の書庫からです。発見者はフェルディナンド・セジュウィッチバーグ博士というイギリスの考古学者です。これは分厚い本のような体裁ですが、紙ではなく獣の革に鉱石を解いた溶液で記述してあるいわば古文書です」
「え?古文書?獣の革?そんなものオルドビス紀にないですよね。確か恐竜よりももっと昔の何億年も前ですよね」
「はい。これは当然我々の遺物ではありません。”彼ら”の遺物です。この遺物の発見が全ての発端なのだそうです。これを”彼ら”が来るまでここで預かっていてください」

菅井はそう言うとケースを置いたまま、踵を返して蔵の中へ入っていった。「それでは、また」暗い蔵の中から菅井がそう言い終えるとすぐに扉が閉まった。ガキンと鍵の閉まる音が蔵の中から響く。

ひゅんひゅんと小さく唸る音がしたかと思うと、バチンと大きなスパーク音がしてそれきり何も音がしなくなった。蔵の扉はしっかりと閉まったままだ。


蔵の前でわたしは茫然と立ち尽くしていた。
遠く本所横川町の捨て鐘を聞いてか深川永代寺が朝四ツの鐘を鳴らし始めた。





(続く)

0 件のコメント:

コメントを投稿