2021/03/18

(No.2593): 提唱会と呼んでいた頃

 古い拙屑ブログをつらつらと眺めていたら、自分で書いたものなのに面白れぇなぁ、と時間も忘れて読み耽ってしまった。
そこで見つけた2013年12月の記事、deweyライブのフライヤー画像やそれに乗じて展開された雑駁な物語が楽しい。しかも、物語はtairaさん側の世界とエフオピ側世界が繋がっているように描かれている。

(No.2104): 晃一郎と吉之助(二月三日提唱会告知)




tairaさんの物語は程よい文学的な表現や構成力の高い文章、リアリティを伴った台詞で創られており、とても読み応えのある作品だ。映画の一遍を観ているように感じる。
一方筆者の方は、一部屋の中だけの物語という体で設定を狭くしてボロを出さないようにした(出てるけど)「晃一郎と吉之助」シリーズである。

おそらく最初はtairaさんがこの時代感でお話を創ったのが切掛けだったと思う。それに筆者が便乗した格好だ。
舞台は別な世界の日本の大正から昭和一桁時代を模している。ただし、筆者側にはMacBookやAbletonLiveは存在している。いわゆるスチームパンク概念の世界観。

元官吏の晃一郎(フルネームは裏神晃一郎)は上野切通停留所傍の木造二階家の二階に下宿している設定。確か階下は道具屋だった。
近所に住むまだ学生(だがほとんど通学しておらず)である吉之助は晃一郎を兄貴と慕っており、しょっちゅう部屋に出入りしている。
彼らは江戸弁を話す。これは筆者が敬愛している古今亭志ん朝師匠の粋な江戸弁が好きだからだ。
どの巻も話の筋は、晃一郎と吉之助によるdeweyライブのどえらい遠まわしな番宣の体であるが、あまりの素っ頓狂加減で何の話だかわからないようになっている。

加えて、”通りに面した一尺ほどの小窓”という文言や、季節感を表す表現をどこかに入れるというルールを自分なりに作っていた。


そんな自己満足型の典型を地でゆくこれら執筆活動(または戯言)は、今思うとdeweyのプロモーションのつもりだった。
当時deweyのライブは集客がほぼゼロに近かった。だからこうした駄文でも、ひょっとしたら誰かの目にとまってくれるのではないかと、期待をしていたのだ。
まぁ目にとまったところで、こんな物語を書いている奴らの音楽を聴こうと思わないだろうし、ましてやライブに足を運ぼうなどと思う人はいなかっただろう。


おまけ

過去ブログを漁ってたら、ハッチャキさんと初めてお会いし共演したときの記事を見つけた。まさかこの5年後に同じバンドメンバーになるとは夢にも思わなかった。

(No.2300): dewey ライブ後記(at LastWaltz)


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