2014/03/10

(No.2149): 遠巒の廻廊(七)


ぼうと光る白き壁を四方に囲む正方形の部屋。
天井も白い。その中央にわたくしは立っている。
わたくしの眼前には二人の痩せた男がいる。
左の男は白いガウンを羽織り、頭髪は半分が
全て剃られ、もう半分は三十センチもある
灰色の前髪が長く垂れ下がっている。
青白い顔。
右の男も同じく白いガウンを羽織り、頭髪を
短く刈り込んではいるがその側頭部に
数字の8を思わせる模様を描いている。
彼らがわたくしの前に立っている。
じっとしているが微妙に揺れている。
無言。
彼らを底辺とした三角形を描く頂点位置に
わたくしは立っている。

わたくしの右後ろには背の低い老人が一人
佇んでいる。坊主のような袈裟を掛けている。
黄色の袈裟だ。老人は言った。
「チュク語で読み上げるのだ」

わたくしはチュク語など話せない。
そう思っていると老人はこう付け加えた。
「なぁに、カタカナを振ってあげましょう」

そうか、カタカナを振ってくれるのなら
なんとかなりそうだ。
わたくしは本心からそう思った。
わたくしの緊張は僅かに緩んだ。
老人がわたくしに紙を手渡した。

そこには見たこともない文字がまるで
何かの暗号記号のように羅列して
並んでいた。
その下には日本語のカタカナで
こう書かれていた。


「アンジェリコ アステ クヮドリフォグリオ
 ディッセターレ ルーチェ ルーン デューイ」


わたくしは、抑揚をなるべく抑え、
それを読み上げた。
しかし声を張った。
そうしたほうが良いだろうと思ったからだ。

読み上げると、眼前の男たちがすっと
お辞儀をし微笑んだ。
右の男の歯が全てないことに今気付いた。
先ほどまでまるで生気のない動力の事切れた
ように立っていた二人の男は、
きびきびとした所作で踵を返して後ろへ
向き直ると、わたくしから遠ざかり歩いて行く。


彼らは襖を同時に開けて次の間へ
出て行った。
それを見送っているといつの間にか
天井の低い畳の部屋に
わたくしは立っていることに気付いた。
うす暗い部屋だ。

先ほどの白い灯りが消えたのだろうか。
消えたことさえ気付かなかったとは
どうしたことなのだろう。
紙を手渡した背の低い老人も
もう姿はない。案の定。
そう案の定こうなることは初めから知っていた。

彼らの出て行った襖は閉められている。
襖の右側に急な階段が設えてある。
こんな階段あったのか。
いつからここにあるのだろう。
木製の飴色、いや既に黒光りするような
年代物だとすぐにわかる。
階段の横は箪笥になっている。
そうだ、前にテレビの何かで見たことがある。
階段の段々がそれぞれ引き出しになっている
江戸時代の家具兼階段を。
嗚呼これがそうなのか。
現物を初めて見た。
実際はすごく小さいものなのだと思った。
人が歩くには少し小さい。

その階段の上から唐辛子売りが降りて来た。
源田鴻八郎というノボリを背中に指して
ほっかむりをして裾を端折っている。
絣の着物。
顔はよく見えないが、唐辛子売りの呼ぶ声が
低い天井のこの和室一杯に響き渡る。
朗々と清らかに。

「えー、江戸は内藤新宿のぉー
八つぅ房がぁー焼きぃー唐辛ぁー子いー」

「八つぅー房がぁー焼きぃー唐辛子いー」

「御用のぉーお向きはー」

「御用のぉーお向きはぁー」

「御用のぉーお向きh


その声で私は目を覚ました。

売り声がまだ遠くで聞こえるように感じる。
起き抜けに見慣れぬ部屋の風景に
一瞬どこかわからなくなった。
夢の続きかともよぎりながらすぐに
思い出した。
そうだ、菅井とやらの家だった

部屋の中は暗い。夜か。
障子を通して外から幾ばくかの明かりが
射し込んでいるので部屋の中は見えなくもない。

通された部屋とは別の部屋か。
畳の上に布団が敷いてあり私はそこに
寝ている。
上半身だけ起きて周りを見るが、
やはり暗いので電気を付けようと灯りの
スイッチを探す。
見当たらない。
布団から出る。
柱や壁なども見てみる。
灯りは見当たらない。
いや、天井には蛍光灯がない。
よく見れば壁にはコンセントもない。


布団の上に座って落ち着こう。
たしか、菅井から聞かされたのは
奴が天明三年生まれで江戸冬木町で
蘭医をやっていたとかいう話しで、
あと何だったっけ、そんな与太話されて、
頭おかしい奴だろうからトイレを借りる
ふりして逃げようと思っていたんだった。
それがなんで布団で寝ていたんだ。
ああ思い出せない。
どうなっちまったんだ。

ふいに襖を開ける音に驚き、振り向く。

着物を着た男がこちらを覗いている。
「目ぇ醒めたかい」

聞き覚えのない声だ。
「菅井」でもなさそうだ。
もう菅井の顔もよく覚えていない
っていうかこいつ、頭、なに髷っぽいわけ。



(続く)




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