2013/04/26

(No.1969): 遠巒の廻廊(二)


「菅井と申します」
男は湯のみを私の前に置きながら言った。
確か表札には●田とあったはずだと思い出し
聞き返した。
「す、菅井さん?、●田さんじゃないんですか」
「あぁ、あれは見せかけの名です。
菅井尚之助といいます」
「えーもう、見せかけって何すか?」
「ええ、住民票だのなんだのといったこちら側の
仕組みがありますから」
「仰ってる意味がわかりませんが、
と、とにかくですね、さっき変な電話が
掛かって来て、電話とった場所からここまで歩いて
それで、113歩とか、あーもうとにかくですね、
なんであなた電話の事知ってたんですか」

「確か、エフオピさんでしたね」
「はい。  え、名乗ってないですよねぼく」
「はい」
「な、なんで名前知ってるんです?」
「まぁ、お茶をどうぞ」
「お茶なんていいですよ、教えて下さいよ!
一体何なんですか!このありさまは!」

言ったあと私の憤る呼吸の音がして
しばらくお互いが沈黙した。
そしておもむろに男は自分の湯のみで
ずずと美味しそうにお茶をすすってから
ゆっくりと言った。

「お茶をどうぞ。冷めないうちに。」

我に返った気がして、言われるまま
お茶を少し飲んだ。
うまい、濃い、緑茶だ。

「わたしは、天明三年の生まれなんです。」

「?」
すぐに理解できなかった。
自分の年齢を言っているのか?と思ったが
天明という元号は知らない。
日本の元号じゃなくて韓国とかそっちなのか
などと訝しんでいると。

「天明三年というのは1783年のことです」
「1783年!?」
「はい。今からちょうど230年前です」
「あんた、じゃぁ230歳なのかよ!
ふざけんなよっ、ていうか怖いよあんた!
もう帰るわ」
こいつ頭のおかしいおやじなのか、
こんな密室で何をされるかもわからん
と思い、玄関へ向かおうと立ち上がった。

「エフオピさん、落ち着いてください。
なぜあなたの名前を知っているのか、
なぜあなたが北北東113歩あるいて
この場所へ来たのか、知りたくはないですか」

私は、立ったまま、震えた。
そうだ、何一つ教えてもらっていない。
私は立ったまま、その男、菅井尚之助の顔を
見下ろした。
どうみても230歳には見えないが
しわは多く、特に目じりには幾本もの
しわが刻まれている。
見たところ普通のおじさんにしか見えない。

「いいですか、エフオピさん、
今からお話しすることは全て本当のことです。
座って下さい、大丈夫です。私は
狂人でもありません」
心を読まれたような気がしてぞっとなったが、
確かに頭がおかしい風には見えない。
私は抜いた刀をさやに戻すが如く
すごすごとこたつに舞い戻った。

「私は今年で、という言い方も変ですが
六十一歳になります」
「1783年生まれなのに?」
「はい」
「ちっともわかりません」
「はい、今からお話しします。
天保三年、これは西暦ですと1833年ですが
その年まで私は江戸冬木町で蘭医をしておりました」

もうしょっぱなからぶっ飛んでる。
さっきまでコンビニでアイスでも買おうかしらと
ふらふらやって来ただけだったのに、
今は、知らない家の中で知らないおっさんと
こたつに入って天保時代に江戸で蘭医?を
していたというこの菅井という男の話しを聞いている
というシチュエーションが俄に現実のことなのか
信じ難い。
いや、待てよ、なんかテレビドラマでそんなのが
前にあったな。
そういうのを見て、妄想と現実の区別が
つかなくなった頭のおかしいおっさんなのでは
ないだろうか。
やべ、やっぱり怖くなってきた。
トイレ行くふりして逃げ出そう。
そうしよう。



( 続く )




0 件のコメント:

コメントを投稿