2012/04/04

(No.1677): 望郷の存在


母方の実家は東京K区J条だったが
昭和52、3年くらいにC県へ引越してしまった。
筆者がちょうど中学を卒業したくらいだろうか。
物心ついた子供時分から、夏休みと冬休みには
大抵、K区J条に遊びに行っていた。
歳の近い従兄弟もいたからという事情もあったが、
子供心にもJ条の雰囲気が好きだった。

わりと雑駁な感じ。
下町というと、浅草、本所、深川辺りの
江戸っ子の似合う街並みを思い浮かぶ人が
多いだろうが、筆者の実体験として、
K区J条も完全なるれっきとした「東京の下町」
というカテゴリに入る。
筆者の実体験は昭和40年代を中心としているが
雰囲気はそれこそ「三丁目の夕日」的なソレと
似ている。

だいたい、母の実家は長屋だった。
長屋の角の家は駄菓子屋だった
 夏はよしずを張り、心太、冬はおでん。
お麩に口を紫色に染めた。
その隣はシビレ節にも登場するような
中気のおじいさんが住んでいた。
その隣が母の実家、その隣が裁縫屋さん
さらに二軒ほど先があったと記憶している。

長屋なので玄関がない。
引き戸を開けると、小上がり的なものがあって
すぐに居間だ。
長屋だが二階建てだった。
黒い木の急な階段があった。
火鉢もあった。

道を挟んだ向かい側も長屋だった。
長屋の裏は路地が細くて長くて入り組んでいた。
子供にはとっておきの遊び場だった。

近所の中華料理屋の匂い。
いつ通っても焼きそばのソースの焦げた 匂いだった。

大人になってからクルマでその場所に
行ってみたことがある。
2004年くらいだったか。
あまりにも変わりすぎていて最初は わからなかった。
道路も子供の頃の印象だともっと広かった
と思ったが、実際は一方通行の狭い道だった。
長屋は当然、なくなっており、
小奇麗なデザインハウスのような一戸建ての
家が整然と並んでいた。

果たして 駄菓子屋も中華料理屋もなくなっていた。


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