2012/03/02

(No.1649): ゴーシュの椅子の物語


今にも雨の降りそうな灰色の空。
その灰色の微かな灯りの漏れる波打った
ガラス窓を横切る者。

長い廊下を歩いている。
右手を少し持ち上げて、その手に吊るした
鈴が、歩く度にチリーンシリーンと
か細いりんの音を鳴らす。
歩みは遅く、左足、右足とゆっくりと進む。
裸足。
体全体を覆う布切れ。幾重にも巻かれており
実像がはっきりしない。
頭からすっぽりと被っている。
布の中から黒く垢まみれの素足が見え隠れする。
男か女か、若いか年寄りか、判別できない。

チリーンと一つ鳴ったあと、
鈴を持つ者は部屋の前で歩みを止めた。
そしてざらついた粒声で言った。

「ゆ、ゆ、有機物は稀有という意思を覚ませ」
「ご、護岸は踏み分けた炉と捉えよ」
「しゅ、主軸の中心をずらしながら響けよ」
「の、能格を保持しながら火の本質を導け」
「い、遺構の価値を計る時間を持て」
「す、過ぎ去る時間を乞い」
「じ、時間を集い」
「ぐ、群集の中に発芽する人格を収めよ」

そこまで言うと、また歩き出した。
チリーン、シリーンとりんの音も進む。
ゆっくりと。

鈴を持つ者が部屋からだいぶ離れた頃、
その部屋の中から低く垂れこめた声が聞こえた。

「さ、さ、柵を飛び越える姿勢に吼えよ」
「ご、護岸は踏み分けた炉と捉えよ」
「しゅ、主軸の中心をずらしながら響けよ」
「の、能格を保持しながら火の本質を導け」
「い、遺構の価値を計る時間を持て」
「す、過ぎ去る時間を乞い」
「き、気力が枯渇する感覚を得よ」
「え、得よ」
「か、獲得せよ」
「と、唐突に訪れる・偽り・に・跨が・れ」

最後は、消えるような声。
そう言い終わると辺りはまた静寂に包まれた。
その頃には
もうりんの音も聞こえない。







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